戦間期のソ連情勢を理解しよう

第一次世界大戦の長期化による不況が原因でロシア革命が勃発すると、ロシア帝政が崩壊し、戦後の混乱を経て、世界初の共産主義国家ソビエト連邦(通称:ソ連)が成立しました。ソ連は成立後、大戦からの経済復興と計画経済(五か年計画)にもとづく工業化、農業集団化・生産拡大などに取り組みます。世界恐慌で全ヨーロッパが不況に襲われる中、唯一影響を受けず成長を続けるなど、好調な出だしといえました。

 

 

クラーク撲滅

計画経済実現のための強引な農業集団化で深刻な飢饉が発生し、スターリンはその原因をクラーク(富農)にあるとして徹底的な弾圧を行っていました。1917年から1933年にかけての追放、強制労働、処刑の中で、数十万人の人々が犠牲になったと考えられています。

 

クラーク追放を訴えるプロパガンダポスター

 

工業化の推進と五か年計画

ソ連は1928年にスターリンが導入した五か年計画を通じて、急速な工業化を進めました。この計画は重工業の拡大を目指し、鉄鋼、石炭、機械生産などが大幅に増加しました。工業化の結果、ソ連は軍事力を強化し、国際的な地位を高めることに成功しました。しかし、この急速な工業化は、労働者に過酷な労働条件を強いることとなり、多くの犠牲を伴いました。

 

大規模な農業集団化

農業分野では、スターリンは農業集団化を強力に推進しました。小規模な農家を集団農場(コルホーズ)や国営農場(ソフホーズ)に統合し、生産効率の向上を図りました。しかし、この集団化政策は農民の抵抗を招き、強制的な集団化と農業生産の低下を引き起こしました。これにより、1930年代初頭にはウクライナやカザフスタンなどで大規模な飢饉が発生し、多くの農民が命を落としました。

 

国内の政治弾圧と大粛清

スターリンの政権下では、政治的な反対派や潜在的な敵対者に対する大規模な粛清が行われました。1930年代後半には、共産党内の高官や軍の指導者、知識人、芸術家などが次々と逮捕され、処刑されるか強制労働収容所に送られました。この大粛清により、スターリンは政権を強固にし、独裁体制を確立しましたが、ソ連社会には深い傷を残しました。

 

ナチスドイツとの接近

戦間期のドイツやイタリアでは不況による社会不安からファシズムが蔓延しました。ソ連は反ファシズムの立場でしたが、英仏など資本主義国は、「ファシズムよりも共産主義の方が脅威」と判断し、ファシズムを共産主義の防波堤にしようと、宥和政策をとるようになってしまいます。しかしその目論みは外れ、ドイツは誰も予想しなかった「ソ連への接近」という道を選びます。

 

そしてソ連は1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだうえで、翌9月ドイツとほぼ同時にポーランドに侵攻し、ポーランドの東半分の領土を占領。そして英仏がドイツに宣戦布告したことで、20年間の平和に終止符が打たれ、第二次世界大戦が開始されたのです。

 

以上のように、戦間期のソ連は、急速な工業化と農業集団化、政治的な弾圧と粛清を通じて国内の体制を強化し、国際社会における地位を確立しようとしました。しかし、その過程で多くの犠牲が払われ、国内には深い傷跡を残しました。また、ナチスドイツとの接近と独ソ不可侵条約の締結は、第二次世界大戦の勃発に大きな影響を与えました。この時代のソ連の動向を理解することは、現代の国際関係を考える上で重要です。