ドイツの年表

 

ドイツ(正式名称:ドイツ連邦共和国)は、中央ヨーロッパの デンマーク、オーストリア、フランス、ベルギー、ポーランドなどに囲まれた西部に位置する 連邦共和国制国家です。国土は 北ドイツ低地、南ドイツアルプス前縁地帯、南西ドイツ中部山岳階段状地域、中部山岳地帯、バイエルン・アルプスの地域で構成され、気候区は 大部分は海洋性気候、大陸性気候に属しています。首都は 冷戦時代の象徴「ベルリンの壁」が築かれたことでも知られる ベルリン。
この国ではとくに 製造業が発達しており、中でも自動車の生産がさかんです。また世界の先進的な地位にある化学、薬学の分野を背景にした化学、薬品業もこの国の基幹産業となっています。
そんな ドイツの歴史は、古代ローマ崩壊後、ほぼ現在のドイツ地域に成立した東フランク王国から始まるといえます。東フランク王国は10世紀に、国王がローマ皇帝の称号を得たことにより神聖ローマ帝国に変貌。神聖ローマ帝国は数々の領邦で構成されていましたが、やがて中でも有力なプロイセン君主によってプロセイン王国が設立されます。プロイセンは19世紀にドイツ帝国となり、ドイツ革命後にワイマール共和国に。第一次大戦後、ヒトラーの台頭によりナチス・ドイツ誕生しました。戦後ドイツは西ドイツ(資本主義勢力)と東ドイツ(社会主義勢力)に分断されてしまいますが、冷戦時代末期の東欧革命により再統一がなされ現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなドイツ連邦共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

ドイツの歴史年表

 

 

古代

前13世紀

前1300年 ハルシュタット文化の繁栄

ドイツ南部でハルシュタット文化が栄える(前400年頃まで)

 

前7世紀

前700年 ヤストルフ文化の繁栄

ドイツ北部でヤストルフ文化が栄えた(前100年頃まで)

 

前650年 ポメラニア文化の繁栄

ドイツ東部でポメラニア文化が栄えた(前200年頃まで)

 

前5世紀

前500年 ラ・テーヌ文化の繁栄

ハルシュタット文化がラ・テーヌ文化に発展する(前200年頃まで)

 

前2世紀

前200年 プシェヴォルスク文化の繁栄

ポメラニア文化がプシェヴォルスク文化に発展した。(前400年頃まで)

 

4世紀

376年ゲルマン民族の大移動

アジア方面から遊牧騎馬民族のフン人が西進をはじめ、その圧力から逃れてきたゲルマン人がローマ帝国領に移住を始める(ゲルマン民族の大移動)。

 

395年ローマ帝国の東西分裂

ローマ皇帝テオドシウス1世が死去し、帝国領は二人の息子により分担統治されることになる。西方に西ローマ帝国、東方に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が成立した。

 

5世紀

476年 西ローマ帝国が崩壊

ゲルマン民族の大移動で西ローマ帝国が社会的混乱に陥る中、ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ皇帝が廃位に追い込まれ、西ローマ帝国が滅びる。

 

480年頃 フランク王国の建国

ゲルマン民族の中でも有力だったフランク族が、ガリアの地にフランク王国を建設する。この王国はやがて西ヨーロッパを統一し、古代ギリシャ・古代ローマに続き、ヨーロッパ文化の基礎を作った。

 

中世

ドイツ国家としての基盤は、9世紀のヴェルダン条約でフランク王国が分裂し、現在のドイツにあたる地域に、東フランク王国が発足した時に形作られたと言われています。10世紀に、東フランク王のオットー1世がローマ教皇より載冠を受け、ローマ皇帝となり、ここにドイツの前身といえる神聖ローマ帝国が誕生しました。

 

6世紀

539年 バイエルン公国がフランク王国の支配下に

バイエルン公国(現ドイツの南東部の地方)がフランク王国に服属する。1806年に王国に昇格する。

 

9世紀

843年 ヴェルダン条約

ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国の3つに分裂。このうち東フランク王国(のちの神聖ローマ帝国)が現ドイツの原型となった。

 

10世紀

962年 神聖ローマ帝国の成立

東フランク王オットー1世が、ローマ教皇ヨハネス12世より冠を授かったことで、神聖ローマ帝国が成立する。

 

11世紀

1077年 カノッサの屈辱

ローマ教皇グレゴリウス7世に破門された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、北イタリアのカノッサ城の前にて、雪中3日間立ち尽くして許しを請うという事件が発生。もとは聖職者叙任権をめぐる教皇と皇帝の対立が原因だが、皇帝が教皇権の前に屈服した形。

 

12世紀

1122年 ヴォルムス協約の締結/叙任権闘争の集結

叙任権闘争を終わらせるべく、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世との間で宗教協約が結ばれる。しかし両者ともに不満が残る内容だったため、争いはこの後も続いた。

 

1156年 オーストリア公国の成立

現在のオーストリアの領域に、神聖ローマ帝国領オーストリア公国が成立。帝国内でも最も重要な地となり、君主はハプスブルク家の当主が世襲した。

 

1190年 ドイツ騎士団の創設

第三次十字軍の際に作られたドイツ兵のための病院を起源とするドイツ騎士団が創設。正式名称はドイツ騎士修道会。武力を行使する「騎士」と平和を祈る「修道士」という相反する二つの性質を併せ持った特異な組織であったが、13世紀以降植民活動により、のちにドイツの中核をなすプロイセンの基礎を築き上げた。

 

13世紀

13世紀には、1254年(ホーエンシュタウフェン朝の断絶)から1273年(ハプスブルク朝の成立)にかけて神聖ローマ帝国の皇帝位が空位となる大空位時代が続いた。皇帝を名乗る者が乱立し各々実権がないに等しかったため政治的混乱が続いた。

 

近世

15世紀

1414年 コンスタンツ公会議(〜18年)

ドイツ南部ボーデン湖畔の町コンスタンツにて、教会大分裂の解決策、異端への対処法などを審議する公会議が開かれる。中世最大規模。この会議で異端と断定された宗教改革家でチェコ人のフスが火刑に処される、これは後のフス戦争の発端となった。

 

1445年 活版印刷技術の発明

ドイツ出身のヨハネス・グーテンベルクが活版印刷技術を発明。文字の組み換えが自在に出来るようになったことで、凸版式印刷の効率が飛躍的に高まり、以後出版物の印刷方式の主流となった。火薬、羅針盤に並ぶ三大発明の一つ。

 

16世紀

 

1517年 宗教改革の始まり

マルティン・ルターがローマ教会の免罪符販売を批判する「九十五か条の論題」を教会の扉に提示。宗教改革の口火となった。同時に神聖ローマ皇帝の集権化に反発するルター派(プロテスタント)とカトリックの対立が拡大していく。

 

1524年 ドイツ農民戦争(〜25年)

ドイツ南部・中部にて、農奴制の廃止や献納の軽減などを求め反乱・それにともなう戦闘が起こった。ルターの宗教改革運動に刺激された農民層が起こしたもの。最後にはドイツ諸侯の軍隊によって鎮圧され農民側の敗北で終わった。

 

1525年 プロイセン公国が成立

ドイツ騎士団のプロイセンにおける領土が宗教改革の中で世俗化(非宗教的になること)し、プロイセン公国が成立。19世紀には神聖ローマ帝国における中心勢力となり、1871年にはドイツ帝国を成立させることとなる。

 

1555年 アウクスブルクの宗教和議

神聖ローマ帝国におけるカトリックとルター派の対立に決着をつけるべく、アウクスブルクの帝国議会で協約が結ばれる。この協約により神聖ローマ帝国内の諸侯はカトリックかプロテスタントか選択することが出来、領民は同じ侵攻の領主のもとへ居住する自由が認められた。

 

※確かにカトリック一色の支配が改められ、今までよりは寛容になった形ですが、いってしまえば「嫌なら移り住め」ということになりますし、カトリック優遇の状態は続いたので、のちの三十年戦争を招くことになります。

 

17世紀

 

1618年 三十年戦争の勃発

神聖ローマ帝国内でカトリック・プロテスタントの対立が再燃し、三十年戦争が開始される。最初はドイツ(神聖ローマ帝国)内の紛争だったが、周辺諸国がそれぞれ新教側、旧教側として参戦※したため、ヨーロッパ中を巻き込んだ国際戦となった。最終的に新教徒勢力が勝利し、ヴェストファーレン条約で講和。

 

※三十年戦争の構図
プロテスタント(新教):デンマーク・スウェーデン・フランス
カトリック(旧教):スペイン

 

1648年 ヴェストファーレン条約の締結

三十年戦争の講和条約がドイツのヴェストファーレンで結ばれる。この条約によりドイツ(神聖ローマ帝国)諸侯が主権を持つようになり、「神聖ローマ帝国」はもはや統一性のない名目のみの存在に成り果てた。神聖ローマ皇帝位を世襲していたハプスブルク家もこの条約を機に凋落していく。

 

18世紀

1701年 プロイセン王国の成立

スペイン王位の継承をめぐり【フランス・スペイン】と【イギリス・神聖ローマ帝国・オランダ】が対立。スペイン継承戦争に発展した。プロイセン公国は神聖ローマ帝国を支援する見返りに、レオポルト1世から王号が認められ、プロイセン王国に昇格した。

 

1740年 オーストリア継承戦争

神聖ローマ皇帝の娘マリア・テレジアがオーストリア王に即位し、全ハプスブルク領を継承する。しかしこれにプロイセン等ドイツ諸公が異議を唱えたことで、ヨーロッパを巻き込んだオーストリア継承戦争に発展。1748年アーヘンの和約で終結。プロイセンはこの戦いでオーストリアからシュレンジェンを奪取するなど、大陸ヨーロッパの強国に躍り出るきっかけとなった。

 

1778年 バイエルン戦争

バイエルン選帝侯領の継承をめぐり、プロイセンとオーストリアが対立しバイエルン継承戦争に発展。別名じゃがいも戦争。テッシェンの和約が結ばれ、オーストリアがバイエルンに対する要求を取り下げる形で終結。

 

1781年 農奴解放令

神聖ローマ皇帝(オーストリア王)ヨーゼフ2世により、近代化の障害となっていた農奴制が廃止される。農民は移動・結婚・職業選択の自由が認められ、領主貴族ではなく君主の保護下に置かれるようになった。

 

1785年 君侯同盟

プロイセン王国主導で、神聖ローマ帝国領邦間で君侯同盟が結ばれる。オーストリアの拡大を牽制する目的があった。

 

1789年 フランス革命

フランスにて王政打倒の市民革命(フランス革命)が勃発する。この革命をきっかけに、ドイツには普遍的合理主義や進歩主義がもたらされ「近代」への転換が始まった。

 

近代

神聖ローマ帝国領内には複数の領邦が分立していましたが、中でも有力だったのがプロイセンとオーストリアです。近代になるとオーストリアとの覇権争いに勝ったプロイセンが、ドイツの領邦をまとめあげドイツ帝国(ドイツ国)が成立させました。ドイツ帝国はその後工業を主軸に経済成長を遂げ、ヨーロッパ列強の仲間入りしますが、第1次世界大戦の敗北とドイツ革命により崩壊。さらに第一次世界大戦の賠償金が重くのしかかったことで、経済は低迷し大量の失業者を生んでしまいました。不況による社会不安や怨嗟がナチス台頭の下地となってしまい、ドイツは差別主義とファシズムを孕んだ「狂気」に身を投じていくことになります。

 

19世紀

1806年 ライン同盟の成立/神聖ローマ帝国の滅亡

ナポレオン・ボナパルトによりドイツ西部諸侯からなるライン同盟が結成される。この同盟により(もはや名目のみの存在だったが)神聖ローマ帝国は完全に消滅した。

 

1815年 ウィーン会議の開催/ドイツ連邦の成立

ナポレオン戦争終結後、ウィーン会議が開催され、「ウィーン体制」と呼ばれるヨーロッパの新たな国際秩序が形成される。ライン同盟が廃止され、旧神聖ローマ帝国を構成していた領邦から成り、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した

 

1825年 ドイツ工業化の進展

イギリスの工業機械が海外にも輸出されるようになり、ドイツでも遅れていた工業化が進展し、産業革命の下地が作られる。ライン地方を中心とする自由主義的ブルジョアジーの台頭も大きく寄与した。

 

1833年 ドイツ関税同盟の結成

オーストリアを除く、プロイセン王国を中心としたドイツ領邦間で関税同盟が成立。同盟国間の関税が撤廃された。後のプロイセンによるドイツ統一(ドイツ帝国成立)の前段階。

 

1861年 日普修好通商条約

日本(江戸幕府)とプロイセンによる通商条約が結ばれる。日本側に不利な不平等条約だったとされるが、これが日独交流の始まりとなったことから、両国の関係史上重要な出来事。

 

1866年 普墺戦争の勃発

プロイセンがドイツ連邦からの脱退を宣言。ドイツ連邦の盟主オーストリアがプロイセンに宣戦布告しプロイセン・オーストリア(普墺)戦争が開始された。最終的にプロイセンがオーストリアに完勝し、ドイツ連邦が解体される結果となった。

 

1867年 北ドイツ連邦の成立

プロイセン王国を盟主とした北ドイツ連邦が成立。オーストリアと南ドイツ諸邦を除く22のドイツ諸邦が参加した。軍事・外交の主導権はプロイセン王国が握った。ビスマルクの小ドイツ主義を実現したもので、のちのドイツ帝国のベースとなった。

 

1870年 普仏戦争の勃発

ドイツ統一を目指すプロイセンと、これ以上の領土拡大を阻止したいフランスとの間で戦争が起こる。プロイセンが連戦連勝を重ね、ドイツ統一を完成させた。フランスは多額の賠償金を払うはめになり、ドイツへの怨念がフランス国民の中に残った。

 

1871年 ドイツ帝国の成立

普仏戦争に勝利したプロイセンはドイツ統一を成し遂げる。プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国(帝政ドイツ)の成立を宣言した。

 

1873年 ビスマルク体制の構築

普仏戦争で負けたフランスの復讐を警戒し、ドイツ帝国とヨーロッパ諸国との間で「ビスマルク体制」と呼ばれる複雑な同盟関係を結ばれる。

 

※三帝同盟/三帝協商/三国同盟/独露再保障条約など

 

1878年 ベルリン会議の開催

ドイツ・ベルリンにてバルカン問題の調停を目的とした会議が開催。ドイツのビスマルク仲介のもと、ロシアのバルカン半島進出(南下政策)を恐れるイギリス・オーストリアとロシアの利害対立の調停を討議した。

 

1882年 三国同盟

ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアによる秘密軍事同盟が結ばれる。前年に行われたフランスのチュニジア占領が直接的な動機となった。のちの第一次世界大戦中にイタリアが英仏に接近し離脱したことで崩壊。

 

20世紀前半

1905年 モロッコ事件の発生

モロッコの支配権をめぐって、ドイツとフランスの間でモロッコ事件と呼ばれる紛争が勃発。最終的にフランスが勝利し、モロッコの保護権を確立した。一方で国際社会におけるドイツの孤立化をまねき、のちの第一次世界大戦の間接的な誘因となった。

 

1914年 第一次世界大戦勃発

オーストリア皇位継承者が暗殺されたサラエボ事件に端を発し、第一次世界大戦が開始される。オーストリアの同盟国であるドイツは、協商国側(イギリス・フランス・ロシア・セルビア)と敵対した。

 

1918年 ドイツ革命/第一次世界大戦の終結

長引く戦争による市民生活の悪化やロシア革命の影響で大規模な反乱が発生。ヴィルヘルム2世が廃位に追い込まれ、ドイツ帝政は打倒された。ドイツ新政権は連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦は幕を閉じた。11月に起こったことから11月革命とも。

 

1919年 ワイマール共和国の成立

第一次大戦終結後、ワイマールにて国民議会が開催され、ワイマール憲法が制定される。ここに18の連邦から構成されるワイマール共和国が成立した。当時にしては極めて進歩的な理念をもとに建設された国家だが、右翼勢力のヒトラーの台頭により33年崩壊した。

 

1920年 ナチス党の結成

ドイツ労働者党を改称して国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が成立。翌年以降は反共産・反ユダヤを掲げるヒトラーを党首とし、33年には政権を掌握することになる。

 

1923年 ミュンヘン一揆の発生/ヒトラーの逮捕

ミュンヘンにて、ヒトラーがナチス政権の樹立を目論みクーデターを起こすも失敗。ヒトラーは逮捕・投獄されたが、翌年には刑務所の職員を丸め込み釈放されている。

 

1932年 ナチスが選挙で圧勝

戦後背負わされた莫大な賠償金による経済不況に苦しんでいた国民の不満を背景に、人種主義を唱えるヒトラーが選挙で圧勝。ナチ党が第一党を確保した

 

1933年 ヒトラーの首相任命/ナチス・ドイツの成立

アドルフ・ヒトラーが首相に任命される。全権委任法が制定され、ワイマール憲法は事実上効力を停止し、ワイマール共和国は崩壊。ここにナチス・ドイツが成立した

 

1935年 ニュルンベルク法制定

ヒトラー政権下で、ユダヤ人から公民権が奪い取る差別法ニュルンベルク法が制定される。違反した者は強制収容所に送られた。

 

1936年 ラインラント進駐

再軍備宣言を行なったナチスドイツが、ロカルノ条約により非武装地帯と定められていたラインラントに進駐。

 

1937年 日独伊三国防共協定締結

ソ連の共産主義勢力に対抗するため、ドイツ・イタリア・日本の間で日独伊三国防共協定が締結される。前年に結ばれた日独防共協定にイタリアが参加した形。

 

1938年 ミュンヘン会談の開催

ミュンヘンで行なわれた英・仏・独・伊の首脳会談。英仏の妥協の結果、チェコスロバキアのズデーテン地方が、ドイツに割譲されることが決定した。

 

1939年 第二次世界大戦の勃発

前年結ばれた独ソ不可侵条約(付属の秘密議定書でソ連とのポーランド分割を定めていた)に基づき、ドイツ軍がポーランドに侵攻。これをうけイギリスとフランスが対独宣戦を行ない第二次世界大戦が開始される。

 

1941年 独ソ戦の勃発

ドイツが独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻。独ソ戦(バルバロッサ作戦)が開始される。英仏とソ連に挟撃される二正面作戦を回避するための保険、という動機だったが、ソ連に電撃戦は通用せず、逆に反攻にあい45年にはベルリンを占領される結果となった。

 

1945年 ナチスドイツの降伏/第二次世界大戦の終結

戦況の悪化でドイツ敗北が必至となり、ヒトラーは4月30日総統地下壕で自殺。翌月に無条件降伏文書に調印し第二次世界大戦が終結した。

 

現代

戦後ドイツの国土は、資本主義勢力のアメリカ・イギリス・フランスと、社会主義勢力のソビエト連邦による東西分割統治を受けることとなりました。冷戦が激化してくると、西側にはボンを首都とする資本主義国家の「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」、東には東ベルリンを首都とする社会主義国家の「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」が成立。ソ連が東ドイツから西ドイツへの人材流出を防ぐために建設した「ベルリンの壁」は民族分断と東西対立の象徴となりました。しかし80年代にソ連でペレストロイカが過熱すると、東ドイツでも民主化要求運動が拡大。ソ連は鎮圧に動きましたが、結局自由化を求める市民を抑え続けることはできず、「ベルリンの壁」は市民の手で壊されます。まもなくドイツ統一条約により東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツの統一(ドイツの再統一)が実現し、現在に至るのです。

 

20世紀後半

1948年 ベルリン封鎖

ソ連当局が、西ドイツとアメリカ・イギリス・フランスの交通を遮断する封鎖措置を行う。西側諸国を西ベルリンから締め出すことが目的だったが、アメリカが空輸による物資供給を始めたため効果はあまりなかった。

 

1949年 ドイツの東西分裂

戦後ドイツは戦勝国の米英ソ仏4か国に共同占領され、西側地帯は米英仏、東側地帯はソ連の支配下におかれた。東西冷戦の激化の中で、西側にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、東側にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した、

 

1961年 ベルリンの壁の建設

東ドイツ政府によって、ベルリンを東西に隔てる総延長156qにもおよぶ壁が建設される。西ドイツへの人民の流出を防ぐ目的があった。東西ドイツの民族分断および西側諸国(資本主義勢力)と東側諸国(社会主義勢力)の対立の象徴となった。

 

1989年 ベルリンの壁崩壊

ソ連でペレストロイカが始まり、東欧で民主化革命が巻き起こる中、東西冷戦、そして民族分断の象徴だったベルリンの壁が東西両ベルリン市民によって壊される。翌年の東西ドイツ統一の端緒となった。

 

1990年 東西ドイツ統一

東欧の民主化革命の嵐の中、89年にはベルリンの壁が崩壊する。翌年、米英仏ソと西ドイツ・東ドイツとの間で、ドイツ最終規定条約が調印され、東ドイツの西ドイツ編入が決定。49年以来のドイツ分断が終わり、再統一を果たした。

 

21世紀

 

2002年 ユーロ導入

欧州統一通貨のユーロ(EUR)導入により、ドイツ・マルクを廃止