
ドイツの国旗
ドイツの領土
ドイツ(正式名称:ドイツ連邦共和国)は、中央ヨーロッパの デンマーク、オーストリア、フランス、ベルギー、ポーランドなどに囲まれた西部に位置する 連邦共和国制国家です。国土は 北ドイツ低地、南ドイツアルプス前縁地帯、南西ドイツ中部山岳階段状地域、中部山岳地帯、バイエルン・アルプスの地域で構成され、気候区は 大部分は海洋性気候、大陸性気候に属しています。首都は 冷戦時代の象徴「ベルリンの壁」が築かれたことでも知られるベルリン。
この国ではとくに 製造業が発達しており、中でも自動車の生産がさかんです。また世界の先進的な地位にある化学、薬学の分野を背景にした化学、薬品業もこの国の基幹産業となっています。
そんな ドイツの歴史は、古代ローマ崩壊後、ほぼ現在のドイツ地域に成立した東フランク王国から始まるといえます。東フランク王国は10世紀に、国王がローマ皇帝の称号を得たことにより神聖ローマ帝国に変貌。神聖ローマ帝国は数々の領邦で構成されていましたが、やがて中でも有力なプロイセン君主によってプロセイン王国が設立されます。プロイセンは19世紀にドイツ帝国となり、ドイツ革命後にワイマール共和国に。第一次大戦後、ヒトラーの台頭によりナチス・ドイツが誕生しました。戦後ドイツは西ドイツ(資本主義勢力)と東ドイツ(社会主義勢力)に分断されてしまいますが、冷戦時代末期の東欧革命により再統一がなされ現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなドイツ連邦共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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古代ドイツの歴史は、紀元前から西ローマ帝国の滅亡(476年)までに及びます。この時期、主にゲルマン系の部族が地域を占めていました。紀元前のゲルマン部族は、ハルシュタット文化やラ・テーヌ文化の影響を受けつつ、独自の社会構造と文化を形成。ローマ帝国の拡大とともに、ゲルマン部族とローマは多くの接触を持ち、紀元後にはゲルマン人の移動がローマ帝国の衰退に大きな役割を果たしました。この時代の代表的な出来事には、テウトブルクの森の戦い(9年)があり、ローマ軍がゲルマン部族に敗れたことで、ローマのゲルマニア進出が阻止されました。西ローマ帝国の滅亡は、ゲルマン人のさらなる移動と勢力拡大を意味し、中世ヨーロッパへの移行期を象徴する出来事となりました。
この時代、ドイツ南部はハルシュタット文化の影響下にあった。この文化は鉄器の使用や豊かな墓地の出現で知られ、中央ヨーロッパの広範囲にわたる交易ネットワークを持っていた。この文明下でドイツでは芸術や技術の進歩が見られた。この文化は紀元前400年頃まで続いた。
紀元前700年頃、ドイツ北部はヤストルフ文化の繁栄期だった。この文化は紀元前100年頃まで存在し、特に鉄製品や陶器で知られている。ヤストルフ文化は農業の発展と密接に関連しており、地域的な特徴が強い文化だった。
紀元前650年、ドイツ東部ではポメラニア文化が栄えていた。この文化は紀元前200年頃まで続き、特にその独特の埋葬慣習と陶器製造技術で知られている。ポメラニア文化はバルト海地域の広範囲に影響を及ぼした。
紀元前500年頃、ハルシュタット文化は発展を遂げ、ラ・テーヌ文化へと変化した。この文化は紀元前200年頃まで続き、より洗練された金属加工技術と複雑な社会構造で知られている。ラ・テーヌ文化はケルト文化の重要な一部であり、西ヨーロッパ全体に広がった。
紀元前200年頃、ポメラニア文化から派生したプシェヴォルスク文化が登場した。この文化は紀元前400年頃まで存在し、鉄器の使用や特定の埋葬儀式など、独自の特徴を持っていた。プシェヴォルスク文化は、後のゲルマン部族の文化に大きな影響を与えたと考えられている。
テウトブルクの森の戦い(紀元9年)は、ローマ帝国とゲルマン部族との間で起きた決定的な戦闘。ローマ軍はプブリウス・クィンクティリウス・ウァルスの指揮下、ゲルマニアを平定しようと試みたが、アルミニウス率いるゲルマン部族の連合軍によって奇襲された。この戦いでローマ軍は大敗し、ローマのゲルマニアへの進出を大幅に後退させる結果となった。
この戦いは、ドイツ人の祖先たるゲルマン部族の独立性を象徴し、ローマ帝国の北方拡張の限界を示す歴史的な出来事として記憶されています。
アジア方面から遊牧騎馬民族のフン人が西進をはじめ、その圧力から逃れてきたゲルマン人がローマ帝国領に移住を始める(ゲルマン民族の大移動)。
ローマ皇帝テオドシウス帝(左図人物)が死去し、帝国領は二人の息子により分担統治されることになる。西方に西ローマ帝国、東方に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が成立した。
▲テオドシウス1世死去直後の東西ローマ帝国の版図(ピンク領域が西ローマ帝国、青領域が東ローマ帝国)
ゲルマン民族の大移動で西ローマ帝国が社会的混乱に陥る中、ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ皇帝が廃位に追い込まれ、西ローマ帝国が滅びる。
▲オドアケルに屈し帝冠を放棄する西ローマ皇帝
ゲルマン民族の中でも有力だったフランク族が、ガリアの地にフランク王国を建設する。この王国はやがて西ヨーロッパを統一し、古代ギリシア・古代ローマに続き、ヨーロッパ文化の基礎を作った。
▲フランク王国の最大版図(804年頃)
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ドイツ国家としての基盤は、9世紀のヴェルダン条約でフランク王国が分裂し、現在のドイツにあたる地域に、東フランク王国が発足した時に形作られたと言われています。10世紀に、東フランク王のオットー1世がローマ教皇より載冠を受け、ローマ皇帝となり、ここにドイツの前身といえる神聖ローマ帝国が誕生しました。
バイエルン公国(現ドイツの南東部の地方)がフランク王国に服属する。1806年に王国に昇格する。
その後のバイエルンはフランスとの緊密な同盟関係を築き、多くの領土的拡大を遂げています。王国に昇格してからは経済、文化、社会の多方面で発展を遂げ、さらにはドイツ統一運動においても重要な役割を果たし、1871年のドイツ帝国成立に至る過程で、その地位を確固たるものとしていたのです。
ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国の3つに分裂。このうち東フランク王国(のちの神聖ローマ帝国)が現ドイツの原型となった。
▲843年ヴェルダン条約後の国境(青領域が西フランク王国/緑領域が中フランク王国/赤領域が東フランク王国)
東フランク王オットー1世が、ローマ教皇ヨハネス12世より冠を授かったことで、神聖ローマ帝国が成立する。
▲962年神聖ローマ帝国成立時の領土
ローマ教皇グレゴリウス7世に破門された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、北イタリアのカノッサ城の前にて、雪中3日間立ち尽くして許しを請うという事件が発生。もとは聖職者叙任権をめぐる教皇と皇帝の対立が原因だが、皇帝が教皇権の前に屈服した形。
▲カノッサ城門前のハインリヒ4世
叙任権闘争を終わらせるべく、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世との間で宗教協約が結ばれる。しかし両者ともに不満が残る内容だったため、争いはこの後も続いた。
現在のオーストリアの領域に、神聖ローマ帝国領オーストリア公国が成立。帝国内でも最も重要な地となり、君主号はハプスブルク家の当主が世襲するようになる。
第三次十字軍の際に作られたドイツ兵のための病院を起源とするドイツ騎士団が創設。正式名称はドイツ騎士修道会。武力を行使する「騎士」と平和を祈る「修道士」という相反する二つの性質を併せ持った特異な組織であったが、13世紀以降植民活動により、のちにドイツの中核をなすプロイセンの基礎を築き上げた。
13世紀には、1254年(ホーエンシュタウフェン朝の断絶)から1273年(ハプスブルク朝の成立)にかけて神聖ローマ帝国の皇帝位が空位となる大空位時代が続いた。皇帝を名乗る者が乱立し各々実権がないに等しかったため政治的混乱が続いた。
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近世ドイツは、宗教改革、三十年戦争、啓蒙思想の時代でした。16世紀にマルティン・ルターが宗教改革を推進し、プロテスタントとカトリックの間の宗教対立が深まりました。この対立は、1618年から1648年にかけてヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争へと発展し、ドイツは大きな破壊と苦難を経験したのです。戦争の終結後、神聖ローマ帝国内の領邦は相対的な独立を確立しましたが、政治的分裂は続きました。18世紀には、プロイセン王国の台頭や啓蒙思想の影響が見られ、ドイツ文化圏では音楽、文学、哲学が開花。このような近世ドイツの経験は、後の国家統一と現代ドイツの基盤形成に大きな影響を与えたことは、非常に重要です。
ドイツ南部ボーデン湖畔の町コンスタンツにて、教会大分裂の解決策、異端への対処法などを審議する公会議が開かれる。中世最大規模。この会議で異端と断定された宗教改革家でチェコ人のフスが火刑に処される、これは後のフス戦争の発端となった。
▲コンスタンツ公会議で教皇と討議する司教達
ドイツ出身のヨハネス・グーテンベルク(左図人物)が活版印刷技術を発明。文字の組み換えが自在に出来るようになったことで、凸版式印刷の効率が飛躍的に高まり、以後出版物の印刷方式の主流となった。火薬、羅針盤に並ぶ三大発明の一つ。
マルティン・ルターがローマ教会の免罪符販売を批判する『九十五か条の論題』を教会の扉に提示。宗教改革の口火となった。同時に神聖ローマ皇帝の集権化に反発するルター派(プロテスタント)とカトリックの対立が拡大していく。
▲教会の扉に『九十五か条の論題』を提示するルター
ドイツ南部・中部にて、農奴制の廃止や献納の軽減などを求め反乱・それにともなう戦闘が起こった。ルターの宗教改革運動に刺激された農民層が起こしたもの。最後にはドイツ諸侯の軍隊によって鎮圧され農民側の敗北で終わった。
▲ドイツ農民戦争における反乱軍
ドイツ騎士団のプロイセンにおける領土が宗教改革の中で世俗化(非宗教的になること)し、プロイセン公国が成立。19世紀には神聖ローマ帝国における中心勢力となり、1871年にはドイツ帝国を成立させることとなる。
ドイツにおけるカトリックとルター派の対立に決着をつけるべく、アウクスブルクの帝国議会で協約が結ばれる。この協約によりドイツの諸侯はカトリックかプロテスタントか選択することが出来、領民は同じ侵攻の領主のもとへ居住する自由が認められた。
▲和議を記念して建てられたアウクスブルクの教会
アウクスブルクの宗教和議により、ドイツにおけるカトリック一色の支配が改められ、今までよりは寛容になった形ですが、カトリックを国教としている国に住んでいるプロテスタントは「嫌なら移り住め」と言われれてしまえば逆らえませんでした。本当の意味で信教の自由が認められたわけではないので、対立はすぐにまた顕在化し三十年戦争に繋がっていくことになります。
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神聖ローマ帝国内でカトリック・プロテスタントの対立が再燃し、三十年戦争が開始される。最初はドイツ(神聖ローマ帝国)内の紛争だったが、周辺諸国がそれぞれ新教側、旧教側として介入したため、ヨーロッパ中を巻き込んだ国際戦となった。最終的に新教徒勢力が勝利し、ヴェストファーレン条約で講和。なおこの戦争は最初こそ宗教戦争だったが、カトリック国のフランスがプロテスタント勢力を支援したように、段々とヨーロッパの覇権をめぐる政治紛争へと性格を変えていった。
▲三十年戦争中、プラハ近郊の山で起こった「白山の戦い」
三十年戦争の講和条約「ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)」がドイツのヴェストファーレンで結ばれる。この条約によりドイツ(神聖ローマ帝国)諸侯が主権を持つようになり、「神聖ローマ帝国」はもはや統一性のない名目のみの存在に成り果てた。神聖ローマ皇帝位を世襲していたハプスブルク家もこの条約を機に凋落していく。
▲「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と称され、「近代国際法の出発点」ともいわれるウェストファリア条約の締結場面
スペイン王位の継承をめぐり【フランス・スペイン】と【イギリス・神聖ローマ帝国・オランダ】が対立。スペイン継承戦争に発展した。プロイセン公国は神聖ローマ帝国を支援する見返りに、レオポルト1世から王号が認められ、プロイセン王国に昇格した。
神聖ローマ皇帝の娘マリア・テレジアがオーストリア王に即位し、全ハプスブルク領を継承する。しかしこれにプロイセン等ドイツ諸公が異議を唱えたことで、ヨーロッパ全土を巻き込んだオーストリア継承戦争に発展。1748年アーヘンの和約で終結。プロイセンはこの戦いでオーストリアからシュレンジェンを奪取するなど、大陸ヨーロッパの強国に躍り出るきっかけとなった。
▲オーストリア継承戦争のフォントノワの戦い(1745年)
バイエルン選帝侯領の継承をめぐり、プロイセンとオーストリアが対立しバイエルン継承戦争に発展。別名じゃがいも戦争。テッシェンの和約が結ばれ、オーストリアがバイエルンに対する要求を取り下げる形で終結。
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(左図人物)により、近代化の障害となっていた農奴制が廃止される。農民は移動・結婚・職業選択の自由が認められ、領主貴族ではなく君主の保護下に置かれるようになった。
プロイセン王国主導で、神聖ローマ帝国領邦間で君侯同盟が結ばれる。
この同盟は、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世の拡張主義的政策に対抗するためのもので、特にバイエルン選帝侯領の領土割譲問題が発端となっています。君侯同盟は、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世によって主導され、神聖ローマ帝国内のバランスを保つための試みでした。この同盟には多くの小規模なドイツ領邦が加わり、帝国内の力の均衡を維持しようとしました。しかし、この同盟は長続きせず、神聖ローマ帝国の解体とドイツの近代国家への道のりに影響を与えることになりました。この出来事は、後のフランス革命戦争とナポレオン戦争に至るまでのヨーロッパの政治的な変動の一環として見ることができます。
フランスにて王政打倒の市民革命(フランス革命)が勃発する。革命の影響はドイツにも波及し、普遍的合理主義や進歩主義がもたらされたことで「近代ドイツ」への転換が始まった。
プロイセン王フリードリヒ2世と神聖ローマ皇帝レオポルト2世が、ピルニッツ城にて会見を開き、フランス王国の革命派にむけ、ルイ16世夫妻の安全や王政の復帰を求める非難声明を出す。しかしこの宣言が革命派に「最後通牒」と受け取られ、フランス革命戦争の原因になった。
▲ピルニッツ城におけるプロイセン王フリードリヒ2世と神聖ローマ皇帝レオポルト2世の会見
革命の波及を恐れたヨーロッパ諸王国がフランス革命に干渉したことをきっかけとしてフランス革命戦争が始まる。プロイセン、オーストリアはフランス占領を画策するも、国家総動員体制をとった革命勢力に阻止され、94年頃からは逆に革命勢力からの侵攻にさらされるようになる。プロイセンは95年バーゼルの和約を結び、講和と引き換えにフランスへのラインラント割譲を余儀なくされた。
▲フランス革命戦争において、プロイセン王国によるフランス侵攻をきっかけに始まった「ヴァルミーの戦い」。プロイセンはフランスが新しく組織した近代型の軍隊(国民軍)の前に敗れた。
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神聖ローマ帝国領内には複数の領邦が分立していましたが、中でも有力だったのがプロイセンとオーストリアです。近代になるとオーストリアとの覇権争いに勝ったプロイセンが、ドイツを統一し、ドイツ帝国(ドイツ国)が成立させました。ドイツ帝国はその後工業を主軸に経済成長を遂げ、ヨーロッパ列強の仲間入りしますが、第1次世界大戦の敗北とドイツ革命により崩壊。さらに第一次世界大戦の賠償金が重くのしかかったことで、経済は低迷し大量の失業者を生んでしまいました。不況による社会不安や怨嗟がナチス台頭の下地となってしまい、ドイツは差別主義とファシズムを孕んだ「狂気」に身を投じていくことになります。
ナポレオン・ボナパルト主導でドイツ西部諸侯からなるライン同盟が結成される。この同盟により神聖ローマ帝国は原型をなくし、皇帝フランツ2世の帝国解体・廃位宣言をもって神聖ローマ帝国は滅亡した。
▲左が滅亡直前の神聖ローマ帝国領。青色地域の領邦が神聖ローマ帝国から脱退しライン同盟に加わった。
ナポレオン戦争終結後、ウィーン会議が開催され、「ウィーン体制」と呼ばれるヨーロッパの新たな国際秩序が形成される。ライン同盟が廃止され、旧神聖ローマ帝国を構成していた領邦から成り、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した
▲利害の衝突で話し合いが遅々として進まず『会議は踊る、されど進まず』と揶揄されたウィーン会議
イギリスの工業機械が海外にも輸出されるようになり、ドイツでも遅れていた工業化が進展し、産業革命の下地が作られる。ライン地方を中心とする自由主義的ブルジョアジーの台頭も大きく寄与した。
オーストリアを除く、プロイセン王国を中心としたドイツ領邦間で関税同盟が成立。同盟国間の関税が撤廃された。後のプロイセンによるドイツ統一(ドイツ帝国成立)の前段階。
日本(江戸幕府)とプロイセンによる通商条約が結ばれる。日本側に不利な不平等条約だったとされるが、これが日独交流の始まりとなったことから、両国の関係史上重要な出来事。
プロイセンがドイツ連邦からの脱退を宣言。ドイツ連邦の盟主オーストリアがプロイセンに宣戦布告しプロイセン・オーストリア(普墺)戦争が開始された。最終的にプロイセンがオーストリアに完勝し、ドイツ連邦が解体される結果となった。
▲プロイセンの勝利を決定的なものとした「ケーニヒグレーツの戦い」
プロイセン王国を盟主とした北ドイツ連邦が成立。オーストリアと南ドイツ諸邦を除く22のドイツ諸邦が参加した。軍事・外交の主導権はプロイセン王国が握った。ビスマルクの小ドイツ主義を実現したもので、のちのドイツ帝国のベースとなった。
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ドイツ統一を目指すプロイセンと、これ以上の領土拡大を阻止したいフランスとの間で戦争が起こる。プロイセンが連戦連勝を重ね、ドイツ統一を完成させた。フランスは多額の賠償金を払うはめになり、ドイツへの怨念がフランス国民の中に残った。
▲普仏戦争で「マルス=ラ=トゥールの戦い」でフランス砲兵隊に突撃するプロイセン騎兵
普仏戦争に勝利したプロイセンはドイツ統一を成し遂げる。プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国(帝政ドイツ)の成立を宣言した。
普仏戦争で負けたフランスの復讐を警戒し、宰相ビスマルク(左図人物)率いるドイツ帝国とヨーロッパ諸国との間で「ビスマルク体制」と呼ばれる複雑な同盟関係(三帝同盟/三帝協商/三国同盟/独露再保障条約など)を結ばれる。
ドイツ・ベルリンにてバルカン問題の調停を目的とした会議が開催。ドイツのビスマルク仲介のもと、ロシアのバルカン半島進出(南下政策)を恐れるイギリス・オーストリアとロシアの利害対立の調停を討議した。この会議の結果バルカン半島諸国の独立が決定した。
▲ベルリン・帝国首相官邸における会議の様子/アントン・フォン・ヴェルナー画
ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアによる秘密軍事同盟が結ばれる。前年に行われたフランスのチュニジア占領が直接的な動機となった。のちの第一次世界大戦中にイタリアが英仏に接近し離脱したことで崩壊。
モロッコの支配権をめぐって、ドイツとフランスの間でモロッコ事件と呼ばれる紛争が勃発。1905年タンジール事件、1911年アガデイール事件と二次に渡って起こったが、最終的にフランスが勝利し、モロッコの保護権を確立した。一方で国際社会におけるドイツの孤立化をまねき、のちの第一次世界大戦の間接的な誘因となった。
▲モロッコ・タンジールを訪問したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が街中をパレードする様子。第一次モロッコ事件(タンジール事件)の発端となった。
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オーストリア皇位継承者が暗殺されたサラエボ事件に端を発し、第一次世界大戦が開始される。オーストリアの同盟国であるドイツは、連合国側(イギリス・フランス・ロシア・セルビア)と敵対した。
▲同盟国のドイツ軍と連合国側のイギリス軍・フランス軍が衝突した「ソンムの戦い」における冬の情景/フランク・クロージャー画
長引く戦争による市民生活の悪化やロシア革命の影響で大規模な反乱が発生。ニコライ2世が廃位に追い込まれ、ドイツ帝政は崩壊した。ドイツ新政権は連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦は幕を閉じた。11月に起こったことから11月革命とも。
▲ドイツ革命の号砲となったキールにおける労働者の反乱
第一次大戦終結後、ワイマールにて国民議会が開催され、ワイマール憲法が制定される。ここに18の連邦から構成されるワイマール共和国が成立した。当時にしては極めて進歩的な理念をもとに建設された国家だが、右翼勢力のヒトラーの台頭により33年崩壊した。
ドイツ労働者党を改称して国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が成立。翌年以降は反共産・反ユダヤを掲げるヒトラーを党首とし、33年には政権を掌握することになる。
ミュンヘンにて、ヒトラーがナチス政権の樹立を目論みクーデターを起こすも失敗。ヒトラーは逮捕・投獄されたが、翌年には刑務所の職員を丸め込み釈放されている。
▲一揆中のナチス(ミュンヘン・マリエン広場にて)
恐慌における社会不安を巧みに煽り、人種主義や生存権を訴えるヒトラーが選挙で圧勝。ナチ党が第一党を確保した
アドルフ・ヒトラー(左図人物)が首相に任命される。その後全権委任法が制定され、ワイマール憲法は事実上効力を停止し、ワイマール共和国は崩壊。ここにナチス・ドイツ(第三帝国)が成立した。
ヒトラー政権下で、ユダヤ人から公民権が奪い取る差別法ニュルンベルク法が制定される。違反した者は強制収容所に送られた。
再軍備宣言を行なったナチスドイツが、ロカルノ条約により非武装地帯と定められていたラインラントに進駐。ナチスドイツによる国際協定の明白な違反であり、ヨーロッパの政治的緊張を高める重要な出来事。
アドルフ・ヒトラーの指導の下、ドイツは1935年の再軍備宣言に続き、1925年のロカルノ条約で非武装地帯とされていたラインラントへの軍事進駐を敢行しました。この行動は、ヴェルサイユ条約の講和条件にも違反しており、ドイツの隣国、特にフランスとベルギーに大きな懸念を引き起こしました。しかし、イギリスやフランスを含む他国は、軍事的な対抗措置を取らなかったため、ヒトラーは自信を深め、その後の膨張政策への道を開くこととなりました。この進駐は、第二次世界大戦への道を進むナチスドイツの野心を如実に示す出来事であり、国際的な平和体制に対する深刻な挑戦であったと言えます。
ソ連の共産主義勢力に対抗するため、ドイツ・イタリア・日本の間で日独伊三国防共協定が締結される。前年に結ばれた日独防共協定にイタリアが参加した形。三国防共協定は、第二次世界大戦の勃発とその後の軸国としての日独伊三国の連携を示す前兆となった。
この協定は、ヨーロッパおよびアジアにおける政治的・軍事的な均衡を変えることになり、戦争の激化と拡大に大きな影響を与えました。また、この同盟は、後に1940年の三国同盟に発展し、第二次世界大戦における主要な枢軸国の基盤となりました。
ミュンヘン協定は、1938年に英国、フランス、ドイツ、イタリアの首脳によって締結され、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲することで合意された。この会談は、ナチスドイツによる領土的拡張と軍事的圧力に対し、平和を維持しようとする英仏の妥協政策の産物だった。しかし、肝心のチェコスロバキアはこの会談に参加しておらず、その結果に対する発言権を持っていなかった。
▲ミュンヘン会談における各国代表
左よりチェンバレン(英)、ダラディエ(仏)、ヒトラー(独)、ムッソリーニ(伊)、チャーノ(伊)
この決定は「宥和政策」の典型例として広く知られており、後に第二次世界大戦の勃発を防ぐことに失敗したことで批判されました。ミュンヘン協定は、ナチスドイツのアドルフ・ヒトラーによる更なる領土的野心を抑制するどころか、その拡張主義を助長する結果となりました。この協定の後、ヒトラーはズデーテン地方の併合に成功し、さらに1939年にはチェコスロバキア全土の占領を行い、ヨーロッパでの緊張を一層高めることとなりました。この出来事は、国際政治における譲歩と抑制の重要性、そして時にそれが予期せぬ結果を招くリスクを示しています。
前年結ばれた独ソ不可侵条約(付属の秘密議定書でソ連とのポーランド分割を定めていた)に基づき、ドイツ軍がポーランドに侵攻。これをうけイギリスとフランスが対独宣戦を行ない第二次世界大戦が開始される。
▲ポーランドのヴィスワ川を渡るドイツ軍
ドイツが独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻。独ソ戦(バルバロッサ作戦)が開始される。英仏とソ連に挟撃される二正面作戦を回避するための保険、という動機だったが、ソ連に電撃戦は通用せず、逆に反攻にあい45年にはベルリンを占領される結果となった。
▲独ソ戦「春の目覚め作戦」においてハンガリーを撤退するドイツ軍
戦況の悪化でドイツ敗北が必至となり、ヒトラーは4月30日総統地下壕で自殺。翌月に無条件降伏文書に調印し第二次世界大戦が終結した。
▲ソ連軍に占領されるベルリン
戦後ドイツは、資本主義勢力のアメリカ・イギリス・フランスと、社会主義勢力のソビエト連邦による東西分割統治を受けることとなり、冷戦の最前線に立つことを余儀なくされました。冷戦が激化してくると、西側にはボンを首都とする資本主義国家の「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」、東には東ベルリンを首都とする社会主義国家の「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」が成立。ソ連が東ドイツから西ドイツへの人材流出を防ぐために建設した「ベルリンの壁」は民族分断と東西対立の象徴となりました。しかし80年代にソ連でペレストロイカが過熱すると、東ドイツでも民主化要求運動が拡大。ソ連は鎮圧に動きましたが、結局自由化を求める市民を抑え続けることはできず、「ベルリンの壁」は市民の手で壊されます。まもなくドイツ統一条約により東ドイツが西ドイツに編入される形で東西ドイツの統一(ドイツの再統一)が実現し、現在に至るのです。
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ソ連当局が、西ドイツとアメリカ・イギリス・フランスの交通を遮断する封鎖措置を行う。西側諸国を西ベルリンから締め出すことが目的だったが、アメリカが空輸による物資供給を始めたため効果はあまりなかった。
▲空輸で西ベルリンに物資を届けるアメリカ輸送機
戦後ドイツは戦勝国の米英ソ仏4か国に共同占領され、西側地帯は米英仏、東側地帯はソ連の支配下におかれた。東西冷戦の激化の中で、西側にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、東側にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した、
東ドイツ政府によって、ベルリンを東西に隔てる総延長156qにもおよぶ壁が建設される。西ドイツへの人民の流出を防ぐ目的があった。東西ドイツの民族分断および西側諸国(資本主義勢力)と東側諸国(社会主義勢力)の対立の象徴となった。
▲建設中のベルリンの壁
ソ連でペレストロイカが始まり、東欧で民主化革命が巻き起こる中(東欧革命)、東西冷戦、そして民族分断の象徴だったベルリンの壁が東西両ベルリン市民によって壊される。翌年の東西ドイツ統一の端緒となった。
▲ベルリンの壁崩壊に沸き立つベルリン市民
東欧の民主化革命の嵐の中、89年にはベルリンの壁が崩壊する。翌年、米英仏ソと西ドイツ・東ドイツとの間で、ドイツ最終規定条約が調印され、東ドイツの西ドイツ編入が決定。49年以来のドイツ分断が終わり、再統一を果たした。
21世紀のドイツは、経済的安定性と国際的な影響力を増す国として進化しました。ユーロ導入後、EU内で経済大国としての地位を確立。東西ドイツ統一後の社会統合問題や移民問題にも取り組み、多文化社会への適応を図っています。環境保護政策にも力を入れ、「エネルギーヴェンデ」と呼ばれる再生可能エネルギーへの転換を推進。国際政治では、EUとNATOの重要なメンバーとして活動し、特にヨーロッパの経済危機や難民危機の際には指導的役割を担いました。また、デジタル化とグローバル化に対応するための政策も進められています。
ドイツはユーロ圏に参加し、ドイツマルクからユーロに通貨を切り替えた。この変更はヨーロッパの経済統合を促進する重要な一歩となった。
アンゲラ・メルケルが首相に就任し、ドイツ初の女性首相となる。彼女のリーダーシップはドイツの国内外政策に大きな影響を与えた。
福島原発事故を受けて、ドイツは核エネルギーから再生可能エネルギーへの移行を加速させるエネルギーヴェンデ政策を採用した。
シリア内戦やその他の地域の危機に伴い、大量の難民がヨーロッパに流入。ドイツは100万人以上の難民を受け入れ、国際的な称賛と批判を受けた。
新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的大流行に際し、ドイツは国内外での感染拡大防止策を講じ、パンデミック対応の模範とされる場合もあった。
以上が、古代から現代までのドイツの歴史年表になります。ドイツは、ゲルマン部族の時代から始まり、中世を通じて神聖ローマ帝国の一部として発展。宗教改革で重要な役割を果たし、19世紀には国家統一を達成。20世紀には二度の世界大戦を経験し、東西に分断されました。冷戦終結後の統一を経て、21世紀のドイツは、EUの主要な経済大国として、国際社会において重要な役割を果たしおり、この長い歴史を通じて、実に多くの変革と進化を遂げてきたことがわかりますね。
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