ソロン(前639年頃〜前559年)は古代ギリシアの政治家・詩人で、「ギリシア七賢人」の1人、「ソロンの改革」と呼ばれる改革を行ったことで知られる人物です。紀元前594年にアルコンに選出された後は、借金帳消し・債務奴隷禁止・財産政治など貧富の差をなくすための改革を断行し、内乱で危機に瀕したアテネの救済に尽力しました。彼の改革は民主制の基礎を作った一方で、貴族・貧民双方の不満を買ったため、ソロンの親類にあたるペイシストラトスの政権獲得および僭主政の開始にも繋がっています。
前6世紀頃(貴族政末期)のアテナイ。深刻な社会問題が暗雲となって国中を覆っていました。問題は大きくわけて2つありました。1つは参政権を巡る不平等の問題、もう1つは貧困問題でした。
まず1つは政治参加を巡る権利について。当時は他民族やポリスとの戦争が日常茶飯事だった時代。平民は自分の商業を守るため進んで戦争に参加しましたが、国家財政などなかったので武器は自費で調達しなければいけませんでした。しかし貴族政社会のアテナイでは平民に参政権は与えられず、当然「自分達もリスクを背負って国に貢献しているのだから政治に参加させろ」という声があがります。しかし貴族は簡単にOKとはいいません。ポリス成立以来脈々と受け継がれる権益を手放したくないからです。貴族と平民の対立が激しくなり、国が停滞していました。
そしてもう1つが貨幣経済成立による貧富の格差拡大です。ポリスの富を貴族達が独占する一方で、借金を返せなくなった無産市民が債務奴隷(自分の体を抵当にする者)に陥るという事態が平然とまかり通っていたのです。これは自業自得などと斬り捨てられない憂慮すべき事態でした。貧民や債務奴隷がこのまま増え続けると、武器を買い戦争に参加することができる者がいなくなるからです。国を防衛する者がいなくなれば多民族やポリスからの侵略をあっさり許してしまいます。端的にいってアテナイ滅亡の危機だったのです。
平民からの格差是正の要求が高まっても、貴族達は既得権益を守るため簡単には妥協しませんでした。両者の対立は治まる気配を見せず、アテナイは停滞。政治・経済・道徳あらゆる面で衰退に向かっていたのです。そんな事態を打開すべく動いたのが『ギリシア七賢人の1人』として知られるソロンです。貧富・身分差による不平等を是正するべく、債務奴隷の禁止と財産政治という改革に乗り出したのです。
ソロンは貴族と平民の対立を治めようとしたことから『調停者』とも呼ばれています。しかし決して「どっちもどっち」でお茶を濁したわけではありません。後にソロンの改革と呼ばれる彼の一連の取り組みは、一貫して市民の生活保護を目的としたもので、アテナイ民主政の基盤を築いたといわれているのです。
市民の借財を帳消しにし、市民が債務奴隷に落ちる事態を防ぎました。また身体や土地を抵当とする市民間の貸借を禁止し、抵当に入った土地を解放し、奴隷とされた市民も自由になりました。ギリシア人は、このソロンによる借金の帳消しや奴隷を自由にするといった政策を「積み荷下ろし」と表現しました。
市民を保有財産により四等級にわけ、武器を調達できる程度の財産を持つ平民を政治に参加できるようにしました。この「貴族でなくとも一定の財産があれば平民でも政治参加できる」ことを財産政治といいます
抽選によって民衆の中から陪審員を選ぶ民衆裁判所を設置し、市民が役人を訴えることができるようにしました。
四部族の代表を各100人選出して構成される400人評議会を設置しました。
財産政治により財産のある平民は政治に参加できるようになりました。しかし財産のない平民は依然政治参加できないままであり、貧困層の平民は当然不満を募らせていました。そんな不満を利用する形で非合法的に権力の座を手に入れる者、つまり僭主になるものが現われます。ソロンの友人の1人ペイシストラトスです。
僭主というのはいわば独裁者のことなのですが、ペイシストラトスに関して言えば言葉のイメージに引っ張られないほうがいいでしょう。彼は貴族の土地の再分配を行い貧乏な平民の負担を大幅に減らしたのです。独裁者は独裁者でも、ひたすら弱者のための政治を行なった「救世主」のような存在でした。
しかし跡を継いだ彼の息子は、とんでもない悪政をしき「独裁者」という言葉のイメージ通り暴君のごとく振る舞いました。実はこの事態をソロンは予言しており、僭主になろうとするペイシストラトスを止めようとしたのですが、聞き入れられず亡命に追いやられてしまいました。
僭主の傍若無人な振る舞いに再び平民の不満が募り、やがて僭主政も打倒されます。いよいよ民主政時代の始まりとなります。その後はもう2度と僭主政治を実現させてはならないという反省から、クレイステネスにより、陶片追放という「僭主候補」の追放制度を設けられたのです。
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