清教徒革命(1642〜49年)と名誉革命(1688年)は、イギリス革命と呼ばれる17世紀の社会変革の中で起こりました。共に当時のイギリス社会を大きく変えた革命ですが、比較してみると違いも目立ちます。
|
|
|
|
清教徒革命の原因はステュアート朝絶対王政への不満です。当時の国王、チャールズ一世は国民の大多数が国教会を信仰する中、カトリック信者であった為、宗教的自由を抑圧する専制主義政治を推し進め、議会との対立が深めていました。
そんな中で「ピューリタン(清教徒)」が宗教的自由を求めて立ち上がり、専制政治を打倒したことで、共和政が宣言されたのです。この王政打倒、イギリス史上初の共和政樹立までの流れがいわゆる清教徒革命です。
清教徒革命後、同革命を成功に導いたクロムウェルが実権を握りましたが、次第に独裁政治に走ったため、彼の死後は反動でチャールズ一世の息子ジェームズ二世を迎える王政復古が起こりました。しかし、ジェームズ二世も父と同じくカトリックであり、専制主義政治を推し進めたため、議会との対立が再燃します。
そこで議会は、オランニェ公ウィレムの力を借りてジェームズ2世を追放。ジェームズ2世の娘メアリと夫ウィレムを王位につかせるとともに、国民の権利と自由を明記した「権利の宣言」の受託を即位の条件とし、「権利の章典」として成文化。ここに現在に続くイギリス立憲君主制が樹立されました。この国王ジェームズ2世追放と立憲君主制樹立までの一連の流れを名誉革命と呼びます。
まず、大きな違いとして挙げられるのは、清教徒革命は国王が処刑されているのに対し、名誉革命は一滴の血も流れず政治体制の革新が起こった「無血革命」であるという点です。名誉革命が「名誉」と呼ばれているのはこれが理由です。
イングランドへ向かうオランニェ公ウィレムの船団。ジェームズ2世は一戦も交えることもなく亡命したため、無血による体制移行が完了した。
また革命後に成立した政治体制については、清教徒革命では、王を置かない共和政を敷いたのに対し、名誉革命後は王を置いた上で、法によって国民の権利を守る立憲君主制を敷きました。
|
|
|
|