マリー・アントワネット
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画
マリー・アントワネットの基本情報
全名:マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ
別名:「赤字夫人」「拒否権夫人」
誕生:1755年神聖ローマ帝国・オーストリア
死没:1793年フランス・パリ
母親:マリア・テレジア
マリー・アントワネット( 1755年 - 1793年)はフランス国王ルイ16世の妃で、フランス革命に際してギロチンにかけられ処刑されたことで有名な人物です。神聖ローマ女帝マリア・テレジアの娘として生まれ、ハプスブルク朝とブルボン朝の同盟を目的とした政略結婚によりルイ16世に嫁ぎました。派手な宮廷生活、軽率さ、浪費壁などから「赤字夫人」と蔑称がついたほどで、もともと国民からの評判は良いとは言えないものでしたが、フランス革命勃後は、革命派と妥協を図るのではなく、立憲王政派をも拒む厳格な反革命勢力を形成し、オーストリアとの秘密交渉を進めながら、亡命で立て直しを図るも失敗(ヴァレンヌ逃亡事件)するという、幾重もの国民に対する裏切りでますます不評を買うことになります。この亡命計画の露呈で王政廃止は決定的なものとなり、最後には革命裁判所での死刑判決を経て処刑されたのです。
マリー・アントワネットはマリア・テレジアの娘、つまりオーストリア・ハプスブルク家の人間です。しかしフランスのブルボン家に嫁入りをすることで、長年対立関係にあったブルボン家とハプスブルク家の融和を実現させ、いわゆる外交革命に繋がったのです。
当時、上流階級の女性は子を産んだとしても、育児は召使いに任せていましたが、マリーアントワネットは当時流行していた啓蒙思想にもとづく「子供に母乳を与えるのは神聖なこと」という考えやルソーの「自然に還れ」という思想に影響を受け、周囲の反対を押し切り自ら母乳を与えていました。これは後の貴族の子育てにも大きな影響を与えたといいます。
当時のフランスには風呂に入る習慣がなく、貴族の女性は、体臭を消すために動物系の匂いが非常に強い香水を使っていました。しかしオーストリア出身のマリーアントワネットは風呂に入っていたことから、匂いがそこまで強くない植物系香水を使っており、これにより植物系の香水の普及が進んだと言われています。
マリー・アントワネットは陶器のコレクターとして有名で、とりわけ日本の陶器を気に入っており、オランダ商人を介して大量に仕入れていました。そのおかげでヨーロッパに日本の陶器が普及したといいます。
マリー・アントワネットのことを「国民が苦しむのを尻目に、贅沢三昧の生活を送っていた世間知らずのお姫様」のような悪いイメージを持つ人も多いと思います。
確かに政治に無関心で、世間知らずな部分はあったかもしれませんが、国民を全く顧みなかったのか?というとそうでもないようで、貧困者のために宮廷内でカンパを募り、食糧を配ったり、母マリア・テレジアの手紙の中では、豊作で国民から飢えから解放されることを喜ぶような文面がみられたりと、彼女の人間らしい温かい顔はあまり知られていません。
決して悪人ではなかったとは思いますが、悪いイメージが定着したのは、彼女がひたすら自分に反対する者を遠ざけ、回りをイエスマンで固めたため、彼女に軽んじられた貴族が悪意をもって、あることないこと噂を流したためともいわれています。「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という有名な言葉は、彼女を嫌う者による創作とみられています。
またドイツ出身なのでフランスに嫁ぐにあたりフランス語の勉強が必須でしたが、彼女はそれを嫌がり、フランス文化にも馴染みませんでした。そのためフランス国民からの人気がよろしくなかったことも、悪評に拍車をかけた部分はあると思います。
以上の理由から彼女には同情できる部分も多いものの、頑固な反動主義者で、立憲君主制への移行すら拒否したために、自ら生き残る道を潰してしまったことは、どう贔屓目に見ても愚かとしか言えません。
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