なぜイタリアでファシズムが台頭したの?

 

ファシズムというのは端的に言えば全体主義・独裁主義のことで、市民の自由や人権よりも国家を上におき、反対派を徹底的に弾圧する思想です。一例を挙げれば、自由主義や共産主義に反対する・国旗掲揚・国歌斉唱を強制する・ナショナリズムを煽る等々の特徴を持ちます。広義にはヒトラーのナチ党、軍国主義時代の日本なども指しますが、一般的にはこの思想が最初に現れたイタリアムッソリーニ率いるファシスト党の運動・体制のことを指します。

 

 

ファシズムの台頭

戦後の経済不況

イタリアでファシズムが台頭したのは第一次世界大戦直後からです。第一次世界大戦は総力戦となり、イタリアは結果的に戦勝国となったものの、戦後は酷い経済不況に見舞われました。そのため政府への不満が高まり、労働者のストライキや暴動が相次ぐ事態に発展しました。

 

ファシスト党の支持拡大

労働者による反政府機運が高まる中、1921年ムッソリーニによるファシスト党が結成され、ロシアのように反体制の労働者による社会主義革命を恐れた支配階級・中産階級・軍事階級などを支持基盤に勢力を拡大していきました。ムッソリーニは、1922年ローマ進軍で政権を奪取し、1926年にはファシスト党以外の全ての政党を解散し、一党独裁体制を確立したのです。さらに1930年代からはアフリカなどへの対外侵略政策を推し進め、イタリア領東アフリカ(1936年-1941年)を建設するなど領土を拡大していきました。

 

ファシズムの崩壊

ファシスト党の対外拡大政策は英仏との亀裂、ナチスドイツへの接近に繋がり、第二次世界大戦の遠因となります。しかし実際戦争が始まると、イタリアは近代化の遅れた脆弱な軍備ゆえにろくな戦果は得られず、戦況の悪化と経済疲弊にともないムッソリーニならびファシスト党は支持を失っていくのです。

 

ムッソリーニの処刑

そして戦争末期になるとムッソリーニは政権を追われ、逃亡の末パルチザンにより捕縛・処刑されたことで、イタリアにおけるファシズムは完全に崩壊しました。またイタリア国王は、国内の混乱を恐れるあまりムッソリーニの独裁を半ば容認していたため、戦後国外追放の憂き目にあい、イタリアは共和政へと移行していくのです。

 

ファシズムの歴史は、20世紀初頭のヨーロッパの政治的、社会的な動きと密接に関連しています。ムッソリーニ率いるファシスト党の台頭は、戦後の経済不況や政治的不安定さを背景にしていました。一方、その崩壊は第二次世界大戦の敗戦と国内の政治的変革によってもたらされました。イタリアにおけるファシズムの終焉は、戦後ヨーロッパの政治地図を再編成し、イタリアを共和国へと導く転換点となりました。この歴史は、独裁政治の危険性と民主主義への移行の重要性を、今日の世界にも教訓として残しています。