アルバニアの国旗
アルバニアの国土
アルバニア(正式名称アルバニア共和国)は東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土はアドリア海沿岸部の平地とバルカン半島中部の山地で構成され、気候区は地中海性気候に属しています。首都は国内最古の建築物の一つであるエザム・ベイ・モスクが有名なティラナ。
この国ではとくに農業が発達しており、中でもブドウや桃などの果物や、オリーブの生産がさかんです。またイタリアとの深い関係を背景にした繊維産業もこの国の基幹産業となっています。
そんなアルバニア共和国の歴史は、オスマン帝国の支配から脱することで建設されたアルバニア公国から始まるといえます。アルバニア公国は第一次大戦後に共和制、次いで王制へと政治体制を変え、第二次世界大戦下ではイタリアファシスト政権の支配下に置かれていました。そして第二次大戦後の共産主義時代を経て、ソ連崩壊を機に資本主義化。アルバニア共和国として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなアルバニア共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代アルバニアの特徴は、その多様な文化的影響と戦略的な地理的位置が挙げられます。古代アルバニアは、現在のアルバニア地域に居住していたイリュリア人の文化が基盤となっています。イリュリア人は独自の言語と習慣を持ち、交易や農業を営んでいました。この地域は、バルカン半島の西部に位置し、アドリア海に面しているため、古代から重要な交易路として栄えていました。
紀元前4世紀から紀元前2世紀にかけて、アルバニア地域はマケドニア王国の影響を受け、アレクサンドロス大王の遠征時にはその支配下に入りました。紀元前2世紀にはローマ帝国がこの地域を征服し、アルバニアはローマの一部となりました。ローマ支配下では、道路や都市が整備され、経済活動が活発化しました。特に、ドゥラス(現在のドゥラス市)は重要な港湾都市として発展しました。
ローマ帝国の分裂後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の一部となり、キリスト教が広まりました。この時期、古代アルバニアは東西の文化が交錯する場となり、多様な宗教や習慣が融合しました。古代アルバニアの歴史は、その後の中世アルバニアの文化と社会構造の基盤を築く重要な時代となりました。
バルカン半島西部にイリュリア人が定住。彼らの部族社会は、後のアルバニア地域における文化と社会の基盤を形成した。
イリュリア人はローマ共和国との間に複数回の戦争を行い、紀元前229年に最初のイリュリア戦争が勃発。紀元前168年にローマの勝利に終わり、この地域はローマの影響下に入る。
ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスの治世下で、アルバニア地域はダルマチア属州の一部とされた。これにより、ローマ帝国の行政組織と文化が地域に根付くことになった。
中世アルバニアの特徴は、多様な支配と独自の文化形成が挙げられます。この時期、アルバニアは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下にあり、その後ブルガリア帝国やセルビア帝国の影響を受けました。特に、アルバニアは東ローマ帝国と西方のヨーロッパ諸国との間に位置し、文化的・宗教的な交差点として重要な役割を果たしました。
11世紀には、ビザンツ帝国の弱体化に伴い、地方の有力者が自治権を強化し、地域ごとの封建領主が台頭しました。この時期、アルバニアの山岳地帯には多くの要塞が築かれ、防衛と自治を強化するための拠点となりました。
13世紀後半から14世紀には、アルバニアはセルビア帝国の支配下に入りましたが、セルビア帝国の崩壊後には再び分裂し、地元の貴族たちが独立を維持しようと試みました。アルバニアはこの時期、多くの内紛と外部からの侵略に悩まされました。
15世紀には、オスマン帝国の拡張によりアルバニアは徐々にその支配下に置かれました。ジョルジ・カストリオティ(スカンデルベグ)率いるアルバニアの抵抗運動が活発化し、アルバニアの独立とアイデンティティの象徴となりましたが、最終的にはオスマン帝国に併合されました。中世アルバニアは、多様な文化と宗教が交錯する中で独自のアイデンティティを形成し、その後の歴史に影響を与えました。
7世紀には、スラヴ人がこの地域に侵入し始めた。彼らの到来は、地域の民族構成と文化に影響を与え、後の歴史に大きな影響をもたらした。
中世初期、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がこの地域を支配し、同国の一部となった。この時代、アルバニア地域はビザンチン文化の影響を強く受け、正教会が広まった。
13世紀には、ヴェネツィア共和国がアルバニア沿岸地域に影響力を拡大。貿易の中心地として発展し、アルバニアの経済と文化に影響を与えた。
オスマン帝国による侵攻は14世紀から始まり、民族英雄スカンデルベクらが独立の為の抵抗が続いたが、1478年ついに完全にオスマン帝国の支配下に入った。以後400年にもおよぶオスマン帝国支配はアルバニアの文化に多大な影響を与えた。
近代アルバニアの特徴は、オスマン帝国からの独立、政治的な独裁体制、そして経済の停滞が挙げられます。アルバニアは1912年にオスマン帝国から独立を宣言し、独立国としての歩みを始めました。しかし、独立後のアルバニアは政治的に不安定であり、第一次世界大戦後にはイタリアの影響下に置かれました。
第二次世界大戦後、エンヴェル・ホッジャ率いるアルバニア労働党が政権を握り、社会主義体制を導入しました。ホッジャは強権的な独裁者として知られ、国内の反対勢力を厳しく抑圧し、秘密警察による監視体制を敷きました。国際的には、アルバニアはソビエト連邦と中国の影響を受けつつも、独自の孤立主義政策を追求しました。
ホッジャの死後も、その政策は続けられ、アルバニアは経済的に孤立し、貧困と物資不足に苦しみました。インフラ整備や工業化の努力はなされたものの、効率の悪い計画経済のために効果は限定的でした。
1980年代後半になると、東欧諸国での民主化の波がアルバニアにも影響を及ぼし、経済の疲弊と国民の不満が高まりました。1990年には大規模な抗議活動が起こり、共産党政権は民主化と市場経済への移行を余儀なくされました。これにより、アルバニアは新たな時代を迎えることとなりました。
民族意識の高まりによりコソボ州プリズレンでプリズレン連盟が結成される。以後オスマン帝国からの独立を目指す運動が頻発するようになる。以後、アルバニア人の政治的・文化的自己決定権を求める運動が活発化。
第一次バルカン戦争後、イスマイル・ケマルがオスマン帝国からの独立を宣言。これはバルカン半島における民族国家の成立と、オスマン帝国の影響力の低下を象徴する出来事だった。
ドイツ貴族のヴィルヘルム・ツー・ヴィートがアルバニア公に即位。しかし第一次世界大戦勃発にともない国外逃亡したため、無政府状態となる。政治的混乱が続き、アルバニアの安定は大きく妨げられた。
共和国宣言を行い、アフメド・ゾグー(後のアルバニア王国国王)が大統領に就任。ゾグーの政治的野心とカリスマ性は、アルバニアの政治シーンに大きな影響を与え、国内の安定と近代化に向けた政策を推進した。
アフメド・ゾグーが王位について、アルバニアは共和政から王政に移行。ゾグーは国王としての権限を強化し、集権的な統治体制を確立した。
イタリア軍の侵攻を受け、アルバニア全土がイタリアに併合される。アルバニア王位はイタリア国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が継承し、イタリアとアルバニアは同君連合となった。アルバニアの主権が大きく侵害され、イタリアの政策により多くの変化がもたらされた。
イタリアのアルバニア統治下で、アルバニアはギリシャとの戦争に巻き込まれた。この戦争はバルカン半島の政治的な均衡を大きく崩し、第二次世界大戦の地域的な展開に影響を与えた。
エンヴェル・ホッジャを書記長とするアルバニア共産党が成立。反ファシズムの民族解放戦線を結成し、イタリアに対する抵抗運動を展開した。
1943年9月、イタリアは連合国に降伏。これにより、アルバニアはイタリアの支配から解放されることになったが、その代わりに新たな占領国、ナチスによる支配を受けることに。ドイツはアルバニア全土を迅速に占領し、厳格な軍事支配を敷いた。この時期、アルバニア共産党は抵抗運動を強化し、多くのアルバニア人がパルチザンとして活動した。
1944年に入ると、アルバニアのパルチザンは活動を強化し、ドイツ軍に対する大規模な攻撃を開始しました。これらの攻撃は、ソ連軍の支援も受けつつ行われました。そして1944年11月には、パルチザンとソ連軍の協力によって首都ティラナを含むアルバニア全土がナチス・ドイツの支配から解放されました。これにより、アルバニアは第二次世界大戦の枷から解放され、新たな政治的道を歩むことになります。
ナチスからの解放後、アルバニア共産党による臨時政府が置かれ、王政廃止とともにアルバニア人民共和国の建国が宣言された。エンヴェル・ホッジャが首班とする共産主義一党独裁体制が開始された。
エンヴェル・ホッジャは、アルバニア共産党の書記長であり、戦時中の抵抗運動の指導者でした。彼の支配体制は、国家と経済の完全な統制、反対意見の抑圧、および厳格なイデオロギー的統一を特徴としていました。
ソ連とは距離を置いた独自路線をとるユーゴスラビアと断交。ユーゴスラビアの独自路線とスターリン主義との間のイデオロギー的な対立が原因だった。
ソ連共産党第20回大会でフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリン主義者のホッジャの権力基盤が揺らいだ。以降ホッジャは反ソ路線を押し出し、中ソ対立でも中華人民共和国を支持する立場をとった。
アルバニアはソ連との外交関係を断絶し、その結果、イデオロギー的に中国に近づくことを選択。これは、スターリン主義への忠誠とソ連の非スターリン主義方針との間の深刻な対立を反映していた。
アルバニアは経済相互援助会議(コメコン)から脱退し、東側ブロックからの経済的独立を図った。これにより、アルバニアは経済的にも政治的にも孤立を深めることになった。
文化大革命の影響を受けて無神国家を宣言し、宗教そのものを禁止した。これにより、教会やモスクは閉鎖され、宗教的シンボルの使用すらも禁止された。
ワルシャワ条約機構を脱退し、ソ連を仮想敵国と定めた軍事改革を開始。ソ連に対するアルバニアの反対姿勢をより一層鮮明にした。
アルバニアは、自国のイデオロギーと政治体制をより強調するため、国名をアルバニア社会主義人民共和国に改称。この改称は、国内の共産主義政策の強化を象徴していた。
アルバニアは日本との間に正式な外交関係を確立。これは、アルバニアが極東アジアに目を向け、国際社会での関係を多様化しようとした一環と理解出来る。
長らくアルバニアで独裁者として君臨してきたホッジャが死去。彼の死後、アルバニアは内政・外交の両面で解放的になり、民主化が急速に進展していった。
現代アルバニアは、東欧革命後に大きな政治的・経済的変革を経験し、社会の再構築に取り組んできました。1992年の民主化以降、共産主義体制から市場経済への移行が進み、自由主義経済の導入とともに民間企業の発展が促進されました。しかし、移行期には経済的混乱と失業率の上昇が見られました。1997年のネズミ講破綻による暴動など、社会不安も続きましたが、国際社会からの支援と改革の努力により、徐々に安定を取り戻していきました。
現代のアルバニアは、EU加盟を目指しており、政治的・経済的基盤の強化に注力しています。インフラ整備や観光業の振興、エネルギー分野への投資が進行中です。観光業は、豊かな自然景観や歴史的遺産を活かして発展し、重要な収入源となっています。また、教育や医療の改善も図られ、国民生活の質向上が進められています。
外交面では、欧州や近隣諸国との関係強化を図り、国際的な協力を通じて地域の安定と経済成長を目指しています。こうした取り組みにより、アルバニアは持続可能な発展と繁栄を目指す現代国家として歩みを続けています。
国名をアルバニア社会主義人民共和国からアルバニア共和国に改称した。新しい民主的かつ市場経済指向の時代への移行を象徴しているといえる。
東欧革命後の民主化の波の中、アルバニアでも民主化を争点とした総選挙が行われ、戦後初の非共産政権が誕生した。この選挙では、アルバニア民主党が圧勝し、新しい政府が発足。共産主義体制から市場経済への移行が始まり、政治的・経済的改革が進められた。しかし、急速な変化と未熟な市場経済の導入により、社会不安や経済混乱が続いた。新政権は、国際社会からの支援を受けつつ、改革の道を模索しながら、アルバニアの新しい未来を築くための挑戦を続けた。
国を蝕んでいたネズミ講が破綻し、破産者が続出したことで、暴動が発生した。これにより、多くの人々が政府に対する不満を爆発させ、全国的な混乱に発展した。暴動は数か月にわたり続き、政権は崩壊の危機に直面した。政府機関やインフラは大きな被害を受け、治安も極度に悪化した。この混乱の中で、国際社会はアルバニアへの支援を強化し、平和維持活動を展開。最終的に、国際的な介入と国内の改革によって徐々に安定が回復し、経済再建が進められた。この暴動は、アルバニアの政治と経済の転換点となり、その後の改革と国際関係の強化に繋がる契機となった。
NATO(北大西洋条約機構)に加盟。欧州連合(EU)に加盟を申請。EU加盟に関してはしばらく動きがなかったが、2014年に「加盟候補国」に昇格し、2021年7月にようやく加盟交渉を開始された。
アルバニアの歴史は古代イリュリア人の時代から始まり、その後、ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国の支配を経験しました。15世紀には国民的英雄スカンデルベグがオスマン帝国に抵抗し、一時的ながら独立を勝ち取りましたが、彼の死後、アルバニアは再びオスマン帝国の支配下に戻りました。
19世紀に入ると、バルカン半島全体で民族主義が高まり、アルバニアでも独立運動が活発化しました。1912年には、オスマン帝国からの独立を宣言し、アルバニア公国が成立しました。しかし、その後の政治は不安定で、第一次世界大戦を通じて外国の干渉が続きました。
第二次世界大戦中、アルバニアはイタリアとドイツに占領されましたが、戦後に共産主義政権が樹立され、エンヴェル・ホッジャの下で長期にわたる一党独裁体制が敷かれました。この時代は国際的な孤立を特徴としました。
1990年代の共産主義の崩壊とともに、アルバニアは民主化の道を歩み始め、市場経済への移行を図りました。現代では、EUとの統合に向けた道を歩んでおり、政治的、経済的な改革が進行中です。
今後のアルバニアは、経済の安定化と成長、民主的なガバナンスの強化、そしてEUへの統合を目指しています。ただし、政治的な腐敗、経済の不安定性、そしてEU統合に向けた厳しい基準への適合など、多くの課題に直面しています。アルバニアは、これらの課題を乗り越えることで、より統合されたヨーロッパの一部としての役割を果たす可能性があります。
|
|
|
|