
アルバニアの国旗
アルバニアの国土
アルバニア(正式名称アルバニア共和国)は東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土はアドリア海沿岸部の平地とバルカン半島中部の山地で構成され、気候区は地中海性気候に属しています。首都は国内最古の建築物の一つであるエザム・ベイ・モスクが有名なティラナ。
この国ではとくに農業が発達しており、中でもブドウや桃などの果物や、オリーブの生産がさかんです。またイタリアとの深い関係を背景にした繊維産業もこの国の基幹産業となっています。
そんなアルバニア共和国の歴史は、オスマン帝国の支配から脱することで建設されたアルバニア公国から始まるといえます。アルバニア公国は第一次大戦後に共和制、次いで王制へと政治体制を変え、第二次世界大戦下ではイタリアファシスト政権の支配下に置かれていました。そして第二次大戦後の共産主義時代を経て、ソ連崩壊を機に資本主義化。アルバニア共和国として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなアルバニア共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
オスマン帝国による侵攻は14世紀から始まり、民族英雄スカンデルベクらが独立の為の抵抗が続いたが、1478年ついに完全にオスマン帝国の支配下に入った。以後400年にもおよぶオスマン帝国支配はアルバニアの文化に多大な影響を与えた。
民族意識の高まりによりコソボ州プリズレンでプリズレン連盟が結成される。以後オスマン帝国からの独立を目指す運動が頻発するようになる。
第一次バルカン戦争後、イスマイル・ケマルがオスマン帝国からの独立を宣言。
ドイツ貴族のヴィルヘルム・ツー・ヴィートがアルバニア公に即位。しかし第一次世界大戦勃発にともない国外逃亡したため、無政府状態となる。
共和国宣言を行い、アフメド・ゾグー(後のアルバニア王国国王)が大統領に就任。
アフメド・ゾグーが王位について、アルバニアは共和政から王政に移行。
イタリア軍の侵攻を受け、アルバニア全土がイタリアに併合される。アルバニア王位はイタリア国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が継承し、イタリアとアルバニアは同君連合となった。
エンヴェル・ホッジャを書記長とするアルバニア共産党が成立。反ファシズムの民族解放戦線を結成し、イタリアに対する抵抗運動を展開した。
イタリアが連合軍に降伏した後、すぐにナチスドイツによる支配を受けた。
パルチザンとソ連軍により、11月に首都ティラナ含め全土の解放に成功。
ナチスからの解放後、アルバニア共産党による臨時政府が置かれ、王政廃止とともにアルバニア人民共和国の建国が宣言された。エンヴェル・ホッジャが首班とする共産主義一党独裁体制が開始された。
ソ連とは距離を置いた独自路線をとるユーゴスラビアと断交。
ソ連共産党第20回大会でフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリン主義者のホッジャの権力基盤が揺らいだ。以降ホッジャは反ソ路線を押し出し、中ソ対立でも中華人民共和国を支持する立場をとった。
文化大革命の影響を受けて無神国家を宣言し、宗教そのものを禁止した。
ワルシャワ条約機構を脱退し、ソ連を仮想敵国と定めた軍事改革を開始。。
長らくアルバニアで独裁者として君臨してきたホッジャが死去。彼の死後、アルバニアは内政・外交の両面で解放的になり、民主化が急速に進展していった。
国名をアルバニア社会主義人民共和国からアルバニア共和国に改称した。
東欧革命後の民主化の波の中、民主化を争点とした総選挙が行われ、戦後初の非共産政権が誕生した。
国を蝕んでいたネズミ講が破綻し、破産者が続出したことで、暴動が発生した。
NATO(北大西洋条約機構)に加盟。欧州連合(EU)に加盟を申請。EU加盟に関してはしばらく動きがなかったが、2014年に「加盟候補国」に昇格し、2021年7月にようやく加盟交渉を開始された。
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