アルバニアの歴史年表

アルバニアの国旗

 

アルバニアの国土

 

アルバニア(正式名称アルバニア共和国)は東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土はアドリア海沿岸部の平地とバルカン半島中部の山地で構成され、気候区は地中海性気候に属しています。首都は国内最古の建築物の一つであるエザム・ベイ・モスクが有名なティラナ。

 

この国ではとくに農業が発達しており、中でもブドウや桃などの果物や、オリーブの生産がさかんです。またイタリアとの深い関係を背景にした繊維産業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんなアルバニア共和国の歴史は、オスマン帝国の支配から脱することで建設されたアルバニア公国から始まるといえます。アルバニア公国は第一次大戦後に共和制、次いで王制へと政治体制を変え、第二次世界大戦下ではイタリアファシスト政権の支配下に置かれていました。そして第二次大戦後の共産主義時代を経て、ソ連崩壊を機に資本主義化。アルバニア共和国として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなアルバニア共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

 

古代アルバニア

前4世紀 イリュリア人の定住

バルカン半島西部にイリュリア人が定住。彼らの部族社会は、後のアルバニア地域における文化と社会の基盤を形成した。

 

前229年〜前168年 ローマとの戦争

イリュリア人はローマ共和国との間に複数回の戦争を行い、紀元前229年に最初のイリュリア戦争が勃発。紀元前168年にローマの勝利に終わり、この地域はローマの影響下に入る。

 

後284年 ディオクレティアヌスの統治

ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスの治世下で、アルバニア地域はダルマチア属州の一部とされた。これにより、ローマ帝国の行政組織と文化が地域に根付くことになった。

 

中世アルバニア

7世紀 スラヴ人の侵入

7世紀には、スラヴ人がこの地域に侵入し始めた。彼らの到来は、地域の民族構成と文化に影響を与え、後の歴史に大きな影響をもたらした。

 

11世紀 ビザンチン帝国の統治

中世初期、ビザンチン帝国がこの地域を支配し、東ローマ帝国の一部となった。この時代、アルバニア地域はビザンチン文化の影響を強く受け、正教会が広まった。

 

13世紀 ヴェネツィア共和国の影響

13世紀には、ヴェネツィア共和国がアルバニア沿岸地域に影響力を拡大。貿易の中心地として発展し、アルバニアの経済と文化に影響を与えた。

 

1478年 オスマン帝国の支配

オスマン帝国による侵攻は14世紀から始まり、民族英雄スカンデルベクらが独立の為の抵抗が続いたが、1478年ついに完全にオスマン帝国の支配下に入った。以後400年にもおよぶオスマン帝国支配はアルバニアの文化に多大な影響を与えた。

 

1878年 プリズレン連盟

民族意識の高まりによりコソボ州プリズレンでプリズレン連盟が結成される。以後オスマン帝国からの独立を目指す運動が頻発するようになる。以後、アルバニア人の政治的・文化的自己決定権を求める運動が活発化。

 

近代アルバニア

1912年 オスマン帝国からの独立宣言

第一次バルカン戦争後、イスマイル・ケマルがオスマン帝国からの独立を宣言。これはバルカン半島における民族国家の成立と、オスマン帝国の影響力の低下を象徴する出来事だった。

 

1914年 アルバニア公国の成立

ドイツ貴族のヴィルヘルム・ツー・ヴィートがアルバニア公に即位。しかし第一次世界大戦勃発にともない国外逃亡したため、無政府状態となる。政治的混乱が続き、アルバニアの安定は大きく妨げられた。

 

1925年 アルバニア共和国の成立

共和国宣言を行い、アフメド・ゾグー(後のアルバニア王国国王)が大統領に就任。ゾグーの政治的野心とカリスマ性は、アルバニアの政治シーンに大きな影響を与え、国内の安定と近代化に向けた政策を推進した。

 

1928年 アルバニア王国の成立

アフメド・ゾグーが王位について、アルバニアは共和政から王政に移行。ゾグーは国王としての権限を強化し、集権的な統治体制を確立した。

 

1939年 イタリア王国の支配

イタリア軍の侵攻を受け、アルバニア全土がイタリアに併合される。アルバニア王位はイタリア国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が継承し、イタリアとアルバニアは同君連合となった。アルバニアの主権が大きく侵害され、イタリアの政策により多くの変化がもたらされた。

 

1940年 ギリシャ・イタリア戦争

イタリアのアルバニア統治下で、アルバニアはギリシャとの戦争に巻き込まれた。この戦争はバルカン半島の政治的な均衡を大きく崩し、第二次世界大戦の地域的な展開に影響を与えた。

 

1941年 アルバニア共産党の成立

エンヴェル・ホッジャを書記長とするアルバニア共産党が成立。反ファシズムの民族解放戦線を結成し、イタリアに対する抵抗運動を展開した。

 

1943年 ナチス・ドイツの支配

1943年9月、イタリアは連合国に降伏。これにより、アルバニアはイタリアの支配から解放されることになったが、その代わりに新たな占領国、ナチスによる支配を受けることに。ドイツはアルバニア全土を迅速に占領し、厳格な軍事支配を敷いた。この時期、アルバニア共産党は抵抗運動を強化し、多くのアルバニア人がパルチザンとして活動した。

 

1944年 ナチス・ドイツからの解放

1944年に入ると、アルバニアのパルチザンは活動を強化し、ドイツ軍に対する大規模な攻撃を開始しました。これらの攻撃は、ソ連軍の支援も受けつつ行われました。そして1944年11月には、パルチザンとソ連軍の協力によって首都ティラナを含むアルバニア全土がナチス・ドイツの支配から解放されました。これにより、アルバニアは第二次世界大戦の枷から解放され、新たな政治的道を歩むことになります。

 

1946年 アルバニア人民共和国の成立

ナチスからの解放後、アルバニア共産党による臨時政府が置かれ、王政廃止とともにアルバニア人民共和国の建国が宣言された。エンヴェル・ホッジャが首班とする共産主義一党独裁体制が開始された。

 

エンヴェル・ホッジャは、アルバニア共産党の書記長であり、戦時中の抵抗運動の指導者でした。彼の支配体制は、国家と経済の完全な統制、反対意見の抑圧、および厳格なイデオロギー的統一を特徴としていました。

 

 

1948年 ユーゴスラビアと断交

ソ連とは距離を置いた独自路線をとるユーゴスラビアと断交。ユーゴスラビアの独自路線とスターリン主義との間のイデオロギー的な対立が原因だった。

 

1956年 スターリン批判

ソ連共産党第20回大会でフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリン主義者のホッジャの権力基盤が揺らいだ。以降ホッジャは反ソ路線を押し出し、中ソ対立でも中華人民共和国を支持する立場をとった。

 

1961年 ソ連と断交

アルバニアはソ連との外交関係を断絶し、その結果、イデオロギー的に中国に近づくことを選択。これは、スターリン主義への忠誠とソ連の非スターリン主義方針との間の深刻な対立を反映していた。

 

1962年 コメコンを脱退

アルバニアは経済相互援助会議(コメコン)から脱退し、東側ブロックからの経済的独立を図った。これにより、アルバニアは経済的にも政治的にも孤立を深めることになった。

 

1967年 「無神国家」を宣言

文化大革命の影響を受けて無神国家を宣言し、宗教そのものを禁止した。これにより、教会やモスクは閉鎖され、宗教的シンボルの使用すらも禁止された。

 

1968年 ワルシャワ条約機構を脱退

ワルシャワ条約機構を脱退し、ソ連を仮想敵国と定めた軍事改革を開始。ソ連に対するアルバニアの反対姿勢をより一層鮮明にした。

 

1976年 アルバニア社会主義人民共和国に改称

アルバニアは、自国のイデオロギーと政治体制をより強調するため、国名をアルバニア社会主義人民共和国に改称。この改称は、国内の共産主義政策の強化を象徴していた。

 

1981年 日本との国交樹立

アルバニアは日本との間に正式な外交関係を確立。これは、アルバニアが極東アジアに目を向け、国際社会での関係を多様化しようとした一環と理解出来る。

 

1985年 ホッジャの死去

長らくアルバニアで独裁者として君臨してきたホッジャが死去。彼の死後、アルバニアは内政・外交の両面で解放的になり、民主化が急速に進展していった。

 

現代アルバニア

1991年 アルバニア共和国に改称

国名をアルバニア社会主義人民共和国からアルバニア共和国に改称した。新しい民主的かつ市場経済指向の時代への移行を象徴しているといえる。

 

1992年 共産主義政権の終焉

東欧革命後の民主化の波の中、民主化を争点とした総選挙が行われ、戦後初の非共産政権が誕生した。

 

1997年 アルバニア暴動

国を蝕んでいたネズミ講が破綻し、破産者が続出したことで、暴動が発生した。

 

2009年 NATOに加盟/欧州連合(EU)加盟申請

NATO(北大西洋条約機構)に加盟。欧州連合(EU)に加盟を申請。EU加盟に関してはしばらく動きがなかったが、2014年に「加盟候補国」に昇格し、2021年7月にようやく加盟交渉を開始された。

 

アルバニアの歴史まとめ

アルバニアの歴史は古代イリュリア人の時代から始まり、その後、ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国の支配を経験しました。15世紀には国民的英雄スカンデルベグがオスマン帝国に抵抗し、一時的ながら独立を勝ち取りましたが、彼の死後、アルバニアは再びオスマン帝国の支配下に戻りました。

 

19世紀に入ると、バルカン半島全体で民族主義が高まり、アルバニアでも独立運動が活発化しました。1912年には、オスマン帝国からの独立を宣言し、アルバニア公国が成立しました。しかし、その後の政治は不安定で、第一次世界大戦を通じて外国の干渉が続きました。

 

第二次世界大戦中、アルバニアはイタリアとドイツに占領されましたが、戦後に共産主義政権が樹立され、エンヴェル・ホッジャの下で長期にわたる一党独裁体制が敷かれました。この時代は国際的な孤立を特徴としました。

 

1990年代の共産主義の崩壊とともに、アルバニアは民主化の道を歩み始め、市場経済への移行を図りました。現代では、EUとの統合に向けた道を歩んでおり、政治的、経済的な改革が進行中です。

 

今後のアルバニアは、経済の安定化と成長、民主的なガバナンスの強化、そしてEUへの統合を目指しています。ただし、政治的な腐敗、経済の不安定性、そしてEU統合に向けた厳しい基準への適合など、多くの課題に直面しています。アルバニアは、これらの課題を乗り越えることで、より統合されたヨーロッパの一部としての役割を果たす可能性があります。