アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世
ペルシア人は、かつてのペルシア帝国に居住していたペルシア語を話す民族で、同国は現イランを中心に覇権を築いていたことから、現代ではイラン人の直接の祖先とされています。
|
|
|
|
ペルシア人は紀元前550年から紀元前330年にかけ、現在の中東や中央アジア、エジプトにあたる領域を支配下に置き、古代オリエント世界を統一に導きました。アケメネス朝ペルシア帝国によるオリエント世界統一後は、西方ヨーロッパ世界征服を目論み、前5世紀にギリシアへの侵攻も行っていますが(ペルシア戦争)、この野望はギリシア諸ポリスが連合を組み全力で抵抗したことで阻止されています。
アケメネス朝(Achaemenid Empire)は、古代のペルシア(現在のイラン)を中心に存在した帝国で、前550年から前330年まで存在しました。この帝国はキュロス2世によって設立され、紀元前6世紀から4世紀にかけて中東を統治しました。アケメネス朝はその領土の広さと、異なる文化を統合するという独自の統治スタイルで知られています。
キュロス2世はメディア、リディア、そして新バビロニア帝国を征服し、その結果生まれた帝国はその後、ダレイオス1世によってさらに拡大。その領土は東はインダス川まで、西はエーゲ海とエジプトまで及んでいたのです。この帝国は紀元前5世紀にはギリシャとペルシア戦争を戦い、その後のスパルタとのペロポネソス戦争にも影響を与えました。
アケメネス朝の統治者たちは、異なる文化と民族を一つの帝国の中で統合し、地方の自治を尊重する政策を採用。さらに郵便制度や道路網のような先進的なインフラを開発し、標準化された貨幣制度を導入しました。このような政策とインフラの開発により、帝国全体の迅速で広範な通商と通信が可能となっていたのです。
しかし、前330年、アケメネス朝はアレクサンドロス3世(大王)のマケドニア軍によって滅ぼされました。これにより、ペルシアの統治形態はヘレニズム時代に移り変わり、新たな文化と政治的パラダイムが生まれるきっかけになったのは重要です。
アルサケス朝、またはパルティア帝国は、紀元前247年から紀元後224年まで存在した古代イランの帝国で、アケメネス朝(ペルシア帝国)の後に続く王朝です。
パルティア帝国はその初期にはセレウコス朝からの独立を果たし、その後数世紀にわたりローマ帝国と領土を争いました。その最盛期には、西はメソポタミアとシリア、東はインダス川までの広大な領域を支配していたのです。
パルティアの社会は封建的な性格を持っていたとされており、多くの自治的な貴族たちが存在していたと考えられています。これにより、帝国の中心から離れた地域では、地元の権力者が相当な自治権を持っていたようですね。
パルティア帝国の統治者は「ギリシャ文化とペルシア文化を融合させる政策」を推進した為、パルティアの芸術と建築は、ギリシャとペルシアの両方の影響を反映しています。
パルティアはまた「弓騎兵」を主力とする「高機動的な軍事力」で知られ、これにより、彼らはしばしば数で勝るローマ軍を打ち負かしていたのです。
しかし、内部抗争とローマとの戦争による疲弊、そしてサーサーン朝の台頭により、パルティア帝国は徐々に衰退。紀元後224年、アルダシール1世によってササーン朝が創設されたことで、パルティア帝国はその歴史を終えたのです。
ササーン朝(Sasanian Empire)、またはサーサーン朝ペルシャは、紀元後226年から651年まで存在した古代イランの帝国で、アルサケス朝の後を継いだ王朝です。この帝国は中東におけるローマ帝国(後にはビザンチン帝国)の主要なライバルとして知られています。
サーサーン朝は、ペルシア人のアルダシール1世がパルティアを倒したことで創始しました。さらに彼の後継者たちは帝国を拡大し、東はインドのサトラップ(州)まで、南はアラビアまで、そして西はエジプトと東ローマ帝国の領土まで広がっていきました。
サーサーン朝の時代は、ペルシアの芸術、文学、科学の成果がピークに達した時期として知られ、とりわけ建築、金属工芸、絵画、織物は優れていました。また、彼らはゾロアスター教を国教とし、この宗教的伝統を広く推進したことも重要です。
政治的には、サーサーン朝は中央集権的な統治を行い、専制君主制を確立しました。その上で広範囲にわたる道路ネットワークを維持し、交易と通信を助ける一方で、都市や宗教施設の建設に力を注いでいたのです。
しかし、東ローマ帝国との長期的な戦争により、サーサーン朝は疲弊していきました。7世紀初頭、新たに勃興したイスラム教徒のアラブ人による征服(イスラム征服)により、サーサーン朝は滅び、ペルシアはイスラム教の支配下に入りました。
|
|
|
|