パリ講和会議

パリ講和会議

パリ講和会議は、第一次世界大戦後の国際秩序について話われた講和会議です。総会は全6回。フランス首相クレマンソーを議長に迎え、アメリカ大統領ウィルソン、イギリス首相ロイドの主導で進行しました。その帰結としてベルサイユ講和条約が調印され、戦後の新たな国際秩序「ベルサイユ体制」が開始されたのです。

 

 

 

パリ講和会議の参加国

パリ講和会議の様子を描いた絵

 

講和会議は1919年1月、パリのフランス外務省で開始されました。ロシアと敗戦国を除く連合国代表、全27か国が列席しましたが、議題の中でも特に重要な問題は、五大国(アメリカイギリスフランスイタリア日本による最高会議で決定されました。

 

パリ講和会議の決定

国際連盟の創設

1919年1月、アメリカ大統領ウィルソン提唱「十四カ条の原則」のもと、国際紛争解決を目的とした国際連盟の創設が決定しました(実際の創設は1920年1月)。1926年にはドイツ加盟も実現するなど、平和維持機関としての役割が大きく期待されましたが、設立を提案した肝心の米国が不参加だったことも大きく、結局来たる大戦の歯止めにはなりませんでした。

 

ベルサイユ体制の構築

1919年5月、対ドイツ講和条約(ベルサイユ講和条約)が敗戦国ドイツに提示されました。それは莫大な賠償金支払い義務に加え、軍備の大幅制限や全植民地の破棄など、主権国家にとって苛烈かつ屈辱的な内容でしたが、フランスの対独報復主義が強かったこともあり、一切の容赦もなされなかったのです。

 

ベルサイユ体制の崩壊

ベルサイユ講和条約調印後の体制を「ベルサイユ体制」といい、この体制下の強い圧迫はドイツ人の不満を募らせていきました。それは世界恐慌が始まるといっそう肥大していき、ナチスというファシズム勢力の躍進に繋がります。そして1933年、政権を獲得したヒトラーは条約を破棄し、軍備制限もラインラントの非武装化も解除、ベルサイユ体制を終わらせ、再び狂気の世界大戦に突入していくのです。

 

ベルサイユ体制の打破を掲げ熱烈な支持を得たヒトラー