奴隷貿易

奴隷貿易

アフリカにおける奴隷狩りを描いたイラスト

 

奴隷貿易とは、16〜19世紀にアフリカ住民(主に黒人)を奴隷として売買した近代ヨーロッパに顕著に見られた貿易形態のことです。貿易を主導したのはヨーロッパの列強国で、アフリカの現地人に奴隷狩りをさせ商品として買取り、新大陸や西インド諸島に輸出していました。

 

密貿易も多く正確な数は把握しきれないものの、故郷アフリカからはるか遠いアメリカの地に連行された人々は、16世紀末から300年間で5000万人に達するといわれています。

 

 

奴隷貿易の目的

 

新大陸(南北アメリカ)の植民地化が進むにつれ、大農場(プランテーション)や鉱山の労働力不足が深刻な問題となりました。

 

当初、ヨーロッパ人は先住民(インディオ)を労働力として使役していました。しかし、彼らに課せられた強制労働は苛烈を極め、加えてヨーロッパから持ち込まれた疫病(天然痘・麻疹など)が猛威を振るったため、先住民の人口は急激に減少してしまったのです。

 

そこで、代わりに導入されたのがアフリカ人奴隷でした。アフリカで捕獲・売買された黒人奴隷を大西洋を越えて新大陸へ送り込み、不足した労働力を補うという仕組みが確立されていったのです。

 

特に16世紀後半からは、ブラジル北東部やカリブ海諸島での砂糖プランテーション経営が本格化し、大量の労働力が必要になりました。砂糖生産は非常に過酷な労働を伴い、なおかつ収益性が高かったため、植民地経営者にとっては「安価で使い捨て可能な労働力」としてアフリカ人奴隷の需要が爆発的に増大していったのです。

 

こうして「大西洋三角貿易」と呼ばれる交易ネットワークが成立し、アフリカ人奴隷の売買は長きにわたり植民地経済の根幹を支えるシステムとなっていきました。

 

奴隷貿易の歴史

開始

奴隷貿易というビジネスは、まず新大陸進出の先駆者となったポルトガルスペインにより開始され、17世紀からはブラジル北東部を獲得したオランダが、18世紀からはフランスとの植民地抗争に勝ったイギリスが参入しました。

 

とりわけイギリスは「アシエント」(=奴隷をスペイン領アメリカに売る特権)を獲得し、本国〜アフリカ〜西インドを結ぶ三角貿易で莫大な利益をあげました。中でもロンドン・ブリストル・リバプールは奴隷船の母港として繁栄を享受したのです。

 

アメリカ・イギリス・アフリカの三地域を起点に行われた大西洋間三角貿易のルート。

 

この交易システムによって、ヨーロッパの経済は潤い、植民地の生産性が向上した一方で、アフリカ社会には甚大な影響を及ぼしました。

 

衰退

奴隷貿易の全盛期には、毎年数万人規模の黒人がアフリカから新大陸へと送られていました。しかし、その輸送過程は拷問に等しい非人道的なものでした。

 

奴隷船は「人間貨物」としての効率を最優先に設計され、船底には数百人もの黒人が鎖でつながれ、狭い空間に詰め込まれました。空気がほとんど通らず、衛生環境も劣悪で、食事も最低限のものしか与えられませんでした。そのため、長距離航海(1か月以上)の間に全体の約20%が死亡したと推定されています。

 

生存率を上げるために、奴隷商人たちはときに「海への投棄」という恐ろしい手段を取ることもありました。病気や栄養失調で弱った者を船から投げ捨て、死亡率を低く見せることで保険金を得るといった残虐な行為も行われていたのです。そしてこうした残虐な実態が次第に明らかになると、奴隷貿易に対する批判が高まり始めました。

 

廃止

18世紀後半になると、人道的・思想的な観点から奴隷貿易を非難する声が高まっていきます。この時期のヨーロッパでは、フランス革命やアメリカ独立革命の影響を受け、自由主義や人権思想が広がりつつありました。

 

その中で、イギリスでは奴隷貿易廃止運動が活発化します。その中心人物の一人が、ウィリアム・ウィルバーフォース(1759 - 1833)でした。彼はイギリス議会で粘り強く奴隷貿易廃止を訴え続け、ついに1807年に奴隷貿易禁止法を成立させたのです。

 

奴隷貿易の廃止に半生を費やし、見事それを実現させた英政治家ウィルバーフォース(1759 - 1833)

 

フランス帝ナポレオンがヨーロッパ中を席巻したナポレオン戦争を通して、奴隷廃止運動はさらに盛り上がりをみせ、デンマークが1802年に、イギリスが1807年に奴隷貿易の廃止に踏み切っています。(アメリカは少し遅れて1865年に廃止)

 

廃止後も、密貿易による売買が横行するなどしましたが、海軍まで動員した粘り強い取り締まりの結果、20世紀までに海上から奴隷船は姿を消しました。

 

奴隷貿易の影響

政治的影響

奴隷貿易は、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの政治体制に大きな変化をもたらしました。ヨーロッパでは、イギリスやフランスが奴隷貿易を通じて莫大な富を築き、植民地支配を強化しました。特にイギリスは、「アシエント」と呼ばれるスペイン領アメリカへの奴隷供給権を獲得し、貿易の中心的役割を果たしました。

 

アフリカでは、奴隷貿易が国家間の争いを激化させました。ダホメ王国やアシャンティ王国のように、奴隷貿易を経済の柱とした国々もありましたが、多くの地域では人口減少や社会不安が深刻化しました。

 

アメリカでは、奴隷制度が南部のプランテーション経済を支え、農業生産を飛躍的に拡大させました。しかし、奴隷制度の存廃をめぐる対立は次第に激しくなり、最終的には南北戦争の原因の一つとなりました。

 

文化的影響

奴隷貿易によってアフリカから新大陸へと移送された人々は、自らの文化を新しい環境に適応させながら継承しました。言語面では、アフリカ諸語とヨーロッパの言語が混ざり合い、ハイチのクレオール語やジャマイカのパトワ語など、新たな言語が生まれました。

 

音楽の分野では、アフリカのリズムや歌唱法が現地の文化と融合し、ブルース、ジャズ、レゲエといった音楽ジャンルの発展につながりました。また、宗教面でもカトリックとアフリカの信仰が融合し、ハイチのブードゥー教やブラジルのカンドンブレのような新しい宗教形態が生まれました。

 

しかし、こうした文化の発展とは別に、奴隷貿易は深刻な人種差別の固定化をもたらしました。奴隷制度のもとで「黒人=労働力」とする価値観が植え付けられ、その影響は制度廃止後も続きました。アメリカではジム・クロウ法のもとで人種隔離政策が続き、南アフリカではアパルトヘイトが導入されるなど、社会の根底に差別意識が残り続けたのです。

 

経済的影響

奴隷貿易によってヨーロッパの港湾都市は急速に発展しました。ロンドン、リバプール、ボルドー、アムステルダムなどの都市は、奴隷貿易とその関連産業によって大きな繁栄を遂げました。イギリスでは、奴隷貿易で得た資本が産業革命の推進力になったとも言われています。

 

新大陸では、奴隷による労働力がプランテーション経済を支え、砂糖や綿花、タバコといった輸出作物の生産を拡大させました。特にカリブ海諸島やアメリカ南部では、奴隷制がなければ成り立たない経済構造が出来上がり、地域間の発展に大きな格差を生じさせました。

 

アフリカでは、奴隷貿易に依存した国々が一時的に繁栄したものの、長期的には経済が不安定になりました。労働人口を大量に失ったことで農業生産が停滞し、武器の流入によって内戦が頻発するなど、社会の混乱が続いたのです。

 

このように奴隷貿易は、経済の発展と引き換えに、多くの地域に深刻な社会問題を残したんですね。そしてその影響は、奴隷制が廃止された後もなお、現代に至るまで続いているのです。

 

以上、奴隷貿易についての解説でした!

 

ざっくりと振り返れば

 

  • 奴隷貿易は、アフリカからアメリカに向けて黒人奴隷が送られ、主に新大陸の植民地で労働力として使われた。
  • 貿易はポルトガル、スペイン、イギリスなどによって行われ、特にイギリスは三角貿易で利益を上げた。
  • 18世紀後半から批判が高まり、イギリスを始め、デンマークなどが奴隷貿易を廃止した。

 

・・・という具合にまとめられるでしょう。

 

ようは「奴隷貿易は、アフリカからアメリカへと続く非人道的な貿易で、18世紀後半の批判と廃止運動によって終焉を迎えた。」という点を抑えておきましょう!以下で奴隷貿易に関する一問一答をまとめていますので、さらに詳しく知りたいという方は参考にしてみてください。