「ソ連崩壊」とは、アメリカと覇を競う二大超大国の一角であり、冷戦時代一貫して世界の政治・経済・軍事に多大な影響を与えてきた社会主義国家ソビエト連邦が、経済破綻の末、1991年12月に解体・消滅した世界史に残る大事件のことです。ソ連崩壊以前にマルタ会談で「冷戦終結宣言」はされていたものの、これで完全に、冷戦およびその始まりにともない発生していた「東西ヨーロッパ分断」という時代に終止符が打たれました。
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1980年代、ソ連は自国の経済危機を受け、「ペレストロイカ」と呼ばれる改革を実施。今までの抑圧的な体制から一転、民主主義・経済的自由・市場経済を重視する方向に舵を切りました。しかしこの方向転換は東欧の民主化革命を誘発し、89年春以降、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニア、とソ連の勢力基盤たる共産党政権が連鎖的に倒れていく結果を招いてしまったのです。
東欧革命でベルリンの壁が崩壊した。
そしてそのわずか2年後の91年12月、1922年に成立した世界初の社会主義国家はあっけなく崩壊します。同時にソ連に代わる緩やかな国家同盟「独立国家共同体(CIS)」が結成され、旧ソ連を構成していた15の共和国がこれに加盟。旧ソ連領の大部分は新たに成立した多党制共和国ロシア連邦が継承しました。
当時の二大超大国の一角が消滅したことで、「パックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)」ともいわれるアメリカ1強の時代が到来しました。
またロシア連邦政府によってソ連共産党からの資金提供の実態が明るみにされ、世界中の社会主義政党や政治家が解党や失脚に追い込まれています。これで共産主義勢力は地球上から一掃されるかのように思われましたが、今度は「社会主義市場経済」という新しいスタイルを導入した国家・中華人民共和国が共産主義大国として台頭するようになります。
ソ連崩壊一番の原因はアメリカとの経済戦争に敗北したことといえるでしょう。西欧諸国の急速な発展を目の当たりにして、社会主義経済という競争原理が働かない経済体制の限界が露呈しました。しかし当局はその現実を直視せず、戦争を煽って国民の不満を逸らしていました。さらに「平等」を理念として成立した国家が、特権を享受する「赤い貴族」を創りだし、自らその思想的基盤すら貶めるようになってしまったのです。
ソ連経済が機能不全に陥ったのは、冷戦構造の中のアメリカとの果てない軍拡競争が原因です。アメリカと違って経済力を超えて軍拡に走りすぎ、その負担に耐えられなくなりました。さらに財源の大半を地下資源に頼っていたソ連にとって、70年代に始まった原油価格暴落は最悪の痛手で、86年8月のチェルノブイリ原発事故がとどめとなりました。暴落で財政破綻寸前だったところに、この大事故の処理のために完全に破綻してしまったのです。
ペレストロイカを推進したゴルバチョフ
何とか再起するため「ペレストロイカ」を加速させましたが、今まで産業発展ではなく軍事につぎ込んでいたのですから、そう簡単に上向きもせず、そのことに対する不満が反ソ連運動を過熱させていきました。その結果東欧の連鎖的な民主化、構成国の独立を招き、結局体制崩壊に歯止めをかけることはできなかったのです。
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