「タタールのくびき」の象徴といわれるモンゴル人徴税官バスカク
「タタールのくびき」は、1236年から1480年にかけ約250年続いたモンゴル帝国によるルーシ(ロシアの古名)征服時代のことです。東欧は侵入が容易な「平坦な地形」ということもあり、雪崩れ込んできたモンゴルの軍隊にわずか数年で征服されてしまいました。
しかし「くびき時代」でもうまく立ちまわっていたのは、現ロシア連邦の原型であるモスクワ大公国で、15世紀後半にはロシア一帯を統一した上でモンゴルの干渉を排除することに成功しています。
同国はその後も領土拡大を続け、18世紀にはヨーロッパ五大国の一角「ロシア帝国」として強い存在感を示すようになるのです。
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「タタール」に関しても、「くびき」に関しても、日常の中ではあまり聞かない単語ですが、それぞれ以下のような意味合いがあります。
「タタール」とはもともとはモンゴルの一部族に過ぎない、ルーシ東方のテュルク系遊牧民族の呼び名です。彼らはやがてモンゴル軍の西方遠征に参加するようなるため、ルーシの人々は東方からやってくるモンゴル系民族を一様に「タタール」と呼ぶようになりました。
「くびき」は牛や馬など家畜を拘束する際に用いる棒状の道具のことで、「タタールのくびき」とはつまり「モンゴル人に家畜のように自由を束縛されていた時代」というロシア人が抱いた屈辱的な心情を読み取ることができます。
モンゴル支配、そこまで酷かった?
実際のモンゴル人によるロシア統治は、「家畜」というほどには酷いものではなかった、というのが最近の通説です。確かに「くびき」時代、モンゴル帝国はルーシの人々に自国への貢納や従軍を強いていたのですが、統治方法はあくまで「旧ルーシ領主を利用しての間接支配」だったので、奴隷のように文化やら宗教やら何から何まで抑圧していたわけでもないのです。だからこそ250年も体制が続いたのだともいえます。
「苛烈で屈辱的な250年」という物語は、後世ロシア人の愛国的史観に基づいて創られたものだと思われ、「ロシアの発展をモンゴルが妨害した」という意味合いも込められます。しかしのちに「くびき」からの脱却を達成するモスクワは、モンゴルに対し一貫して敵対していたわけではなく、時にはその力を自国の発展に利用しています。モンゴルによる支配があったからこそ、モスクワの勃興があったという指摘もあるほどなのです。
モンゴル帝国によるロシア支配の始まりから終わりまでの流れは以下の通りになります。
カルカ河畔の戦い(1223年)がモンゴルによる最初のルーシ侵攻となりました。この時はすぐ東方に帰還しましたが、1236年冬、バトゥ率いる大遠征軍が東ヨーロッパに侵攻を開始。
ヴォルガ川流域を征服したのちルーシへの侵攻を始め、次々と拠点を攻め落としていきました。そして40年にはキエフ大公国首都キエフを落としてルーシ全域を手中に収めたのです。こうして全ルーシ住民はモンゴル帝国への臣従を余儀なくされ、「タタールのくびき」は開始されました。
モンゴル帝国のルーシ支配地域は、ジョチ家の管轄であったことからジョチ・ウルスとも呼ばれます。ジョチ・ウルスはやがて、モンゴルの構成国としての性格を強めていったため。キプチャク・ハン国とも呼ばれるようになりました。
ルーシ国家の中でもモスクワ大公国は、モンゴル支配を受けながらも着実に発展していき、イワン三世の時代にロシア一帯を束ねる大国に成長します。そして1480年にはモンゴルへの貢納を廃止し、モスクワに攻め入ろうとするハーン国軍を撤退に追い込むことで、「くびき」の時代に終止符を打ちました。
そしてモンゴル帝国はその後衰退に向かい17世紀に滅びますが、モスクワ大公国は成長を続け、18世紀にはロシア帝国となります。すると今度はシベリアやクリミアなどに住むモンゴル族がロシア人の支配下に置かれるようになるのです。
「タタールのくびき」の影響については、非常に広く多岐にわたりますが、大別して
政治的影響
経済的影響
社会文化的影響
の3つの観点では、以下のような影響がありました。
「タタールのくびき」により、ロシアの諸公国はモンゴル帝国(ジョチ・ウルス)の支配を受けることになり、その結果、各公国は形式上の自治を保ちながらも、モンゴルのハンに忠誠を誓わざるを得ませんでした。これにともない、ロシアの諸公たちは、モンゴルのハンから認可を受けなければ大公の地位に就くことができないという、いわゆる「任命制」のような形になっていました。
また、モンゴルによる支配が続いたことで、ロシア内の公国同士の争いが激化し、団結が難しくなりました。とりわけ、キエフ大公国(882 - 1240)の崩壊後、中央集権的な統治が失われ、諸公国の分裂が深まったのです。しかし、その後モスクワ大公国が力をつけ、最終的にこれらを統一していく道が開かれたという側面もあります。このように、モンゴルの支配は一方でロシアの政治体制を揺るがし、他方でモスクワを中心とした新たな国家形成の契機ともなったのです。
「タタールのくびき」はロシアの経済にも大きな負担を強いました。特に、モンゴル側に対して定期的に貢納を行う義務が課され、その重税は農民や商人に深刻な影響を与えました。これにともない、ロシアの地方経済は発展が著しく遅れ、商業活動も制約を受けました。モンゴル支配下では、税の徴収を行うためにロシアの領主たちがその権限を強化する一方で、農民の生活は厳しくなり、地方社会の経済的発展が停滞してしまったのです。
さらに、モンゴル人による度重なる略奪や戦争も経済的ダメージを加え、街や村が破壊されることで人々の生産活動が阻害されました。こうした結果、ロシアの都市の成長が遅れ、他のヨーロッパ諸国と比べて経済的に後れを取る要因の一つとなったのです。
「タタールのくびき」による社会的な影響も見逃せません。まず、モンゴル人はロシアの宗教には干渉しなかったため、ロシア正教は存続しました。これにより、モンゴル支配下でもロシア正教会は人々の精神的支柱となり、宗教的なアイデンティティが保たれたのです。そして、正教会は後に、くびきを脱する過程で大きな役割を果たすことになります。
一方で、ロシアの軍事や行政のシステムにもモンゴルの影響が見られます。特に徴税や通信制度、さらには軍隊の編成方法など、モンゴルの統治技術がロシアに取り入れられ、モンゴル式の支配体制が根付いたのです。これにより、ロシアの国家運営の方式が大きく変わりました。
「タタールのくびき」の最も長期的な影響として、モスクワ大公国の台頭が挙げられます。モスクワは、モンゴルに忠誠を誓うことで他の諸公国よりも特権的な地位を得、徐々に勢力を拡大していきました。そして、1380年にドミトリー・ドンスコイ(1350 - 1389)がクリコヴォの戦いでモンゴル軍に対して勝利を収めたことで、モスクワの権威が高まります。そして最終的には、1480年にイヴァン3世(1440 - 1505)がモンゴル支配を完全に脱し、ロシアの独立を果たしたのです。この過程でモスクワは、ロシア全土の中心地となり、後のロシア帝国の基礎を築いていくわけですね。
このように、「タタールのくびき」はロシアにとって多方面にわたる影響を及ぼし、政治的・経済的な困難をもたらす一方で、モスクワ大公国の台頭とロシア統一への道筋をも形作ったのです。
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