二月革命(フランス)

二月革命(フランス)

フランス二月革命

 

二月革命は、1848年2月にフランスパリで起こったブルジョア革命です。七月王政を倒し、第二共和政が成立する要因となりました。第二共和政はブルジョワ共和派と社会主義共和派の内紛により地盤が崩れ、ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)のクーデターにより崩壊しました。

 

 

 

二月革命の原因

フランスでは七月王政(オルレアン王政)下で急速に工業化が進み、都市機能が充実していく一方で、手工業や農業従事者の失業および倒産、労働者軽視といった負の側面も浮かび上がるようになりました。

 

しかし選挙権は限られた特権階級にしか与えられず、不満の声が政治に反映されない中、反政府機運が高まっていたのです。

 

改革宴会禁止令

そんな中で、ギゾー政府が改革宴会禁止令を発令。当時は公の場での反政府集会が禁止されていたため、市民は宴会の名目で集まり改革運動を行っていたのですが、これすら禁止されたことで、ついに我慢の限界として革命の狼煙をあげたのです。

 

二月革命の結果

1848年2月22日、政府の過剰なまでの弾圧に激昂した労働者、農民、学生による大規模なデモが起き、これを猟騎兵がデモ隊に向けて発砲する事件が発生。

 

二月革命の結果、亡命を余儀なくされたルイ・フィリップ

 

フランソワ・ギゾー首相は罷免されたものの、民衆の怒りはおさまらず、ルイ=フィリップは退位(ロンドンに亡命)に追い込まれます。そしてまもなく臨時共和制府が成立し、フランス第二共和制が成立したのです。

 

第二共和政のその後

 

フランスでは臨時政府のもとで労働者の権利保護、失業者救済、有権者拡大など、様々な改革が行われ、ようやく労働者に寄り添った社会が実現したかのように見えました。しかしやがてブルジョワ共和派と社会主義者の対立が激化し、政府の運営は不安定なものになってしまします。

 

政府は結局はブルジョワ寄りの政策を続け、労働者の権利は軽視されたたままだったので、1848年6月社会主義者主導の暴動(六月暴動)が発生するなど政治的混乱は続きました。

 

1848年12月にはルイ=ナポレオンが大統領に選出され、彼は議会と対立したのち、1851年クーデターにより権力を奪取したため、フランスの第二共和政は崩壊し、第二帝政へと突入していったのです。

 

二月革命の影響

フランスの二月革命を契機に、西ヨーロッパに自由主義の考え方が広まっていき、ドイツ三月革命イタリア統一運動(リソルジメント)、東欧・中欧の民族運動も誘発し、ウィーン体制の崩壊に繋がりました。二月革命は近代ヨーロッパへの転換点となった欧州史的にも重要な出来事だったといえます。