
イングランドへ向かうオランニェ公ウィレムの船団。ジェームズ2世は一戦も交えることもなく亡命したため、無血による体制移行が完了した。
名誉革命は1688年から89年にかけてイギリスで行なわれた革命です。革命というと犠牲がつきものですが、この革命運動では小規模な戦闘は起こったものの、ほぼ無血による革命だったためこのように呼ばれています。「偉大なる革命」とも呼ばれ、王政復古後に起こったピューリタン革命に並ぶイギリス政治の転換点となりました。
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オランダ総督ウィレム2世とイングランド王女メアリーの子です。オランダのハーグに生まれ、父の後を継いだ後は、ルイ14世のフランスの侵略に抵抗していました。
1689年議会の求めに応じ、軍を率いてイングランドに上陸し、養父ジェームズ2世をフランスに追放、無血の名誉革命を実現させました。その後「権利宣言」を承認して、妻メアリと共に、ウィリアム3世としてイングランド王に即位しています。このことでイギリスとオランダは同君連合のような関係になりました。
メアリは、ジェームズ2世とアン・ハイドの娘としてロンドンに生まれました。1677年、ロンドンにてオレンジ公ウィリアムと結婚し、オランダに移住。 87年専制政治を行っていたジェームズ2世に変わり王に即位するよう議会から要請を受け、主導権を夫に委ねつつそれを受諾。そして89年名誉革命後イギリスに帰国し、「権利宣言」を承認、夫とともにイングランド王に即位しました。1694年天然痘にかかり、32歳の若さで死去。
ジェームズ2世は、王政復古体制下のステュアート朝イングランド国王です。在位1685年〜1688年。清教徒革命で処刑されたチャールズ1世の子で、王政復古後王位についたチャールズ2世の弟。兄の崩御により1685年王位につくも、カトリック復興や専制政治を推し進めたため議会と対立。名誉革命で王位を追われ、フランスに亡命しました。
その後ルイ14世の援助を受け、カトリックの多いアイルランドから再起を図るも結局失敗しています。
名誉革命のきっかけは、ジェームズ2世の強引なカトリック化政策および議会無視といった権力の乱用にあります。彼の政策は、プロテスタントが多数を占めるイギリスにおいて大きな不安と抵抗を引き起こしました。この不満が高まる中、ジェームズ2世の専制的な行動は、政治的な危機を招く一因となりました。
その結果、国中で国王に対する蜂起が起こり、ジェームズ2世は国外追放(フランスに亡命)に追い込まれ、議会は代わりにプロテスタントのウィレムとメアリーを共同統治者としてウィリアム3世、メアリー2世として即位させたのです。
名誉革命後、共同統治者として即位したオラニエ公ウィレムとメアリー2世
議会はウィレムとメアリーに王権を厳しく制限する「権利の章典」を提出し、2人はこれに署名・承認し公布しました。この文書は、国王の権力を議会の監視下に置く内容を含んでおり、イギリスの政治体制における議会の優位を確立しました。
その後寛容法を制定し、非国教会のプロテスタントの信仰の自由を認めたことで、17世紀以来続いた国内の宗教対立および議会と国王の対立に終止符が打たれ、現在に続くイギリス立憲君主制の基礎が確立されたのです。
名誉革命はイギリスだけでなく、ヨーロッパ全体にも大きな影響を与えました。この革命を通じて、イギリスは国王と議会がバランス良く機能する立憲君主制を確立し、これが後の民主的政治発展のモデルとなりました。また、権利の章典に記された原則は、後のアメリカ独立宣言やフランス人権宣言の精神的基盤を形成するのにも寄与しました。
更に、名誉革命による平和的な権力移譲と寛容法の制定は、イギリス内部の宗教的な寛容を促進し、社会的な安定をもたらしたことで、イギリスの経済発展と帝国拡大の基盤を固める効果をもたらしました。この時期からイギリスは海外貿易と植民地経営において大きな進展を遂げ、世界的な大国へと変貌を遂げていくことになります。
名誉革命は1688年から89年にかけてイギリスで起きた無血革命で、専制政治を行ったジェームズ2世を追放し、ウィリアム3世とメアリー2世が共同統治者として即位した革命だったのです。この革命では「権利の章典」が採択され、議会主導の立憲君主制が確立されました。その影響はイギリス国内の宗教的寛容や政治的安定を促進し、さらにヨーロッパ全体へ民主的政治モデルとしての影響を及ぼしました。
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