アテナイの中心部にそびえたアクロポリス
アテナイは古代ギリシアにおいて栄えたポリス(都市国家)です。アカイア人分派のイオニア人により建設され、海上交易により発展を遂げていきました。そしてペルシア戦争の後全盛期を迎え、全ギリシャの覇権を確立。ヨーロッパ文明の源流たるギリシア文明の担い手となったのです。「パルテノン神殿」「民主主義」などわかりやすい「古代ギリシア」のイメージは、大体が全盛期のアテナイにより作られたものです。ペロポネソス戦争でスパルタに敗れ、ギリシャの覇権を失いますが、ローマに征服されるまで依然として文化の中心であり続けました。
アテナイは現ギリシャ共和国の首都アテネを拠点とする国家で、アッティカ地方・・・つまりアクロポリスの丘を中心に形成された市街と、その周辺の農村地域を領土に持っていました。なおアッティカ半島サロニコス湾沿いの、交易に適した「自然の良港」に立地していたことは、アテナイ繁栄の一因となりました。
アテナイの人口はペルシア戦争後の全盛期に急増し、20~30万人の人口を擁していました。うち半数以上は市民とその家族で、残る人口の3〜4割は奴隷や在留外国人(メトイコイ)になります。なおペロポネソス戦争中の疫病蔓延により、アテナイの人口は3分の1にまで激減したといわれています。
アカイア人分派のイオニア人がアッティカ地方に移住を開始し、王政国家としてアテナイを創建したとされる。
後世のスパルタ建国者ドーリス人から、頻繁に侵入を受けるようになる。しかしアテナイはこれを耐え抜き、独立を維持した。
ペルシア支配への反発から起こったイオニアの反乱へのアテナイの介入をきっかけに、ペルシア戦争が開始される。
アテナイを中心としたギリシャ連合軍が、マラトンの戦い、サラミスの海戦、プラタイアの戦いなどに勝利することで、アケメネス朝ペルシアのギリシア侵攻の野望を打ち砕き、ペルシア戦争を終結させた。
デロス同盟を通して全ギリシアポリスへの服属を迫るアテナイと、スパルタを中心とするペロポネソス同盟が対立し、ペロポネソス戦争に発展した。
疫病の流行やそれによる指導者ペリクレスの死という不運が重なり、一気に劣勢に立たたされ、スパルタに降伏した。この敗北によりアテナイはギリシアにおける覇権を失った。
北方から勢力を拡大してくるマケドニア王国との戦いに敗れ、マケドニアの支配下に入った。以後の歴史は【マケドニア王国】を参照のこと。
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