ローマの機構や行政、ローマ帝国・皇帝という自己認識でもないし、古代ギリシアの遺産や教育制度の存続でもない。ビザンツの特徴はそれらの融合にあった。
ジュディス・ヘリン著『ビザンツ〜驚くべき中世帝国〜』より
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、コンスタンティノープル(現イスタンブール)を首都とするローマ帝国の東方領土です。西ローマ帝国の滅亡後も存続し、最盛期にはギリシャ、小アジア、シリア、エジプトなど東地中海世界全域を支配する大帝国を形成。中世ヨーロッパ世界の覇権を競いました。
15世紀半ばにイスラム勢力に攻め入られ滅亡するも、黄金期に築かれた「ビザンチン文化」は、後世ヨーロッパの発展に大いに貢献しています。この帝国の政治・宗教・社会・文化スタイルなどは、東ヨーロッパのスラブ系国家の模範とされ、現在の東ヨーロッパ世界(正教文化圏)の源流にもなったのです。
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東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル
東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルは、堅牢な城壁に囲まれた難攻不落の要塞都市です。中世ヨーロッパ最大の商業都市として知られ、東西交通の要衝として世界中のあらゆる物・人・富が集結していました。
今のヨーロッパ経済はよく「西高東低」などといわれますが、コンスタンティノープル全盛の時代の東欧は西欧よりもはるかに豊かでした。対して西欧は、民族大移動でゲルマン人が大挙し、社会的に混乱していたこともあり、経済面では大分立ち遅れていたのです。
東ローマ帝国は、ビザンツ帝国(ビザンティン帝国)の名でも呼ばれます。これは首都コンスタンティノープルの前身が、ギリシア植民市ビザンティオンであったことに由来しています。近代歴史学ではこちらの呼称が使われることが多いのですが、あくまで当時は「ビザンツ」という言葉は使われず正式な国号は「ローマ帝国」でした。
東ローマ帝国では、キリスト教とヘレニズム文化の融合した「ビザンチン文化」と呼ばれる文化が栄えていました。ラテン語ではなくギリシア語を公用語とし、ギリシア正教を国教とするなど、西方カトリック世界(旧西ローマ帝国領)とは文化的に剥離していたのです。
政治文化に目を向けると、7世紀から10世紀にかけてイスラム教徒やスラブ人の圧迫をうけたことが背景にあり、中世では珍しい「テマ制」と呼ばれる中央集権体制を敷いていました。その体制の下、「ローマ法大全」の編纂を始めとして、後世ヨーロッパ社会の基盤となる社会や制度が形成されたことは、非常に大きな意義となります。
東ローマ帝国は、テオドシウス帝没後の395年、東西に分割されたローマ帝国の東方部分を、息子アルカディウスが継いで成立しました。西方領土の西ローマ帝国は、ゲルマン民族の侵入により5世紀後半に滅びてしまいますが、東ローマ帝国は民族移動の影響をあまり受けず、ギリシアの先進文明やエジプトの豊かな穀倉地帯を背景に繁栄をつづけました。
東ローマ帝国の最大版図を現出したユスティニアヌス
ユスティニアヌス帝(在位:527年〜565年)の治世で、イタリア半島や北アフリカを支配していたゲルマン人を追い出し、旧西ローマ領の一部の宗主権および、永遠の都ローマの奪還にも成功し、最大版図を形成しています。
7世紀に入るとイスラーム勢力からの侵攻を受けるようになり、じわじわと東方領土を喪失していきます。8世紀以降はローマ教皇と袂を分かち、フランク王がローマ皇帝として戴冠されたり、ドイツに神聖ローマ帝国が誕生したことで、国際的地位も低下していきました。さらに疫病や相次ぐ戦乱も衰退に追い打ちをかけ、東ローマの領土はみるみる縮小していったのです。
国力の衰退にともない、東ローマ帝国の性格は、「古代ローマ帝国の継承者」とは言い難いほど変容していきます。当時の住民は自分たちのことを「ローマ人」と呼んでいましたが、7世紀には住民のほとんどがギリシア人に、公用語もギリシア語となり、ローマ人の国というよりギリシャ人の国になっていました。
13世紀には第4回十字軍の侵攻で破壊の限りを尽くされ、一度滅亡してしまいます。その後何とか回復するも、もはや「帝国領」はコンスタンティノープル周辺のわずかな領域だけとなっていました。そんな吹けば飛ぶような状態のところを、1453年オスマン帝国に攻め入られ、完全に滅亡したのです。
第4回十字軍の攻撃を受けるコンスタンティノープル
ローマ帝国を僭称する国家は中世以降いくつも現れるも、ローマの伝統を直接受け継ぐ正統な継承者は東ローマ帝国が唯一でした。それが滅亡したことにより、かろうじて存続していた「ローマの血脈」は完全に絶たれたのです。
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