教皇領とは、8世紀半ばより19世紀末まで中部イタリア地域に存在した、ローマ教皇により支配されていた領土のことです。ローマ教皇=「神の代理人」を君主とする教皇国家(Papal State)とも言い換え可能で、カトリックが権威を持っていた中世ヨーロッパ社会ではとりわけ強い影響力を持っていました。
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教皇領はローマ帝国時代の「ペテロの遺産」に起源を持ち、756年、フランク王ピピンがランゴバルド王国を滅ぼし、奪ったラベンナ総督府を教皇に寄進したことで成立しました(ピピンの寄進)。800年にはピピンの子カール大帝が、教皇レオ3世よりローマ皇帝として戴冠され、フランク王国は最盛期を迎えています。
ピピンの寄進を行ったピピン3世
つまり教皇領の成立は、西ローマ帝国崩壊(476年)後、ランゴバルド族など異民族からの庇護を必要としたローマカトリック教会と、権威付けが欲しかったカロリング朝フランク王国の利害が一致した結果といえるのです。
11世紀から13世紀にかけては、トスカーナ、カンパーニャ、ウンブリア、マルケ、ロマーニャと中部イタリア広域に領土を広げていき、まさに教皇国家(Papal State)としての体裁を持つようになりました。
ローマ教会の免罪符販売を批判する『95か条の論題』を提示するルター。これをきっかけに始まった宗教改革は教皇権の著しい衰退に繋がった。
14世紀に始まる「アヴィニョン捕囚(1309〜1377年)」や「教会大分裂(1378〜1417年)」は教皇領の国家としての統一性を大きく揺るがしました。また14世紀から17世紀にかけて巻き起こったルネサンス・宗教改革・科学革命といった社会現象は、人々が囚われていた宗教的な枠組みを破壊する役目を果たし、これはイコール教皇権の著しい衰退にも繋がったのです。
そうして18世紀になる頃には国家としては完全に落ち目になってしまい、同世紀末にはフランス革命軍に占領され、領内にフランス傀儡のチザルピーナ共和国とローマ共和国が立てられています。ウィーン会議によって教皇領は再建されたものの、もはやかつてのような影響力は完全に失っており、その凋落は明らかでした。
1848年、イタリア統一運動の一環として、ミラノで起こったオーストリア支配に対する反乱「ミラノの5日間」
イタリア半島の統一が遅れたのは、中世来、教皇領の政治的影響力が強すぎたのが一因にあります。しかし上述した通り中世末期から近世にかけて教皇権は凋落。これを好機と見たサルデーニャ王国は、19世紀半ばからイタリア統一運動(リソルジメント)を本格化し、1860年には中部イタリア一帯を自国に併合してしまいます。さらに翌年にはイタリア王国が成立し、70年ローマを併合したことで、残る教皇領はバチカン周辺のみになりました。
ローマ併合以来、教皇とイタリア王国は対立関係にありましたが、1929年ファシズム政権と教皇領の間でラテラノ条約が締結。これで教皇の支配地域に主権が認められ、現在に続くバチカン市国が成立したのです。
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