フィレンツェ共和国(伊:Repubblica fiorentina)は、12世紀から16世紀にかけてイタリアに存在した共和政国家です。ただし「共和政」とは名ばかりで、実態はメディチ家による専制政治国家であり、その強力な統治のもと、14〜16世紀にはルネサンス文化の中心地として大いなる繁栄を享受したのです。そして16世紀、コジモ1世がトスカーナ大公位を受けたことで、トスカーナ地方全域を支配下におさめるトスカーナ大公国へと変貌を遂げました。
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フィレンツェ共和国の政治体制は、中世ヨーロッパの都市国家として特徴的なものでした。彼らの政体は、商人階級が主導し、民主主義とオリガルヒー(少数者による統治)の要素を併せ持つものでした。
フィレンツェは富裕な商人階級によって支配されていました。これらの商人たちは政治の主導権を握り、都市の経済と政治の両方を管理していました。
共和国の体制下では、一部の公職者は選挙によって選ばれました。これにより、ある程度の民主主義的要素が含まれていました。たとえば、最高行政官(ゴンファロニエーレ・ディ・ジュスティツィア)は2ヶ月ごとに選挙で選ばれ、9人のプリオーレ(行政評議員)とともに都市を統治していました。
それでもなお、全ての市民が選挙に参加できたわけではありません。選挙権は、特定の財産条件を満たす男性市民に限定されていました。また、実際の政策決定はしばしば有力な家族や派閥によって行われ、全体の意志を反映しきれないことも多かったです。
このようなフィレンツェ共和国の政治体制は、その歴史の中で幾度も改革と変遷を繰り返し、さらにはメディチ家のような有力な一族が台頭してきたことで、政体自体も大きく変わっていきました。
中世以来、毛織物工業と金融業を中心に栄え、ランゴバルド王国・東ゴート王国・神聖ローマ帝国の支配を経て、12世紀に都市国家として独立。1406年にはピサ共和国を、1421年にはリヴォルノを支配下におさめ、トスカーナ地方の中心的都市にまで成長しました。
さらに14世紀から16世紀にかけては、メディチ家による積極的な財政支援でルネサンス文化の中心地となり、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ガリレオ・ガリレイなど名だたる芸術家を輩出するなど、繁栄を享受しました。
1532年、メディチ家のイル・モーロが「フィレンツェ公」の称号を得たことでフィレンツェ公国に、1569年、コジモ1世が「トスカーナ大公」の称号を得たことでトスカーナ大公国へ昇格しています。
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