戦いの舞台となったカルラエ
カルラエの戦いは、紀元前53年、共和政ローマと古代イラン王朝パルティアの間で行われた戦争です。パルティア戦争は217年までに8回も勃発していますが、カルラエの戦いは第一次パルティア戦争の最終局面となった戦いでもあります。結果はローマの敗北と終わり、指揮官のクラッススが戦死したことでカエサル、ポンペイウス、クラッススによる三頭政治は終焉を迎えました。
カルラエの戦いの指揮をとったのは第三次奴隷戦争(スパルタクスの乱)で史上最大規模の奴隷反乱を鎮圧した功績を持つマルクス・クラッススです。彼はローマ屈指の富豪で、三頭政治の一角としてカエサル、ポンペイウスに並ぶ政治的地位はあったものの、軍事的な功績では二人にかないませんでした。そこで確固たる名声を得ようと、パルティアへの遠征を決断。元老院は消極的でしたが、カエサルとポンペイウスが了承したのでしぶしぶ遠征を許可しました。
しかし結果は返り討ちの惨敗でした。ローマ軍は戦力では勝っていたものの、パルティア軍の巧みな戦略に翻弄され、足並みを乱されたところ包囲殲滅されてしまったのです。カエサルやポンペイウスと違い、クラッススの地位がしょせんは財力に物を言わせたものであったことを象徴づけた無残な結果となりました。
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