ノレイアの戦い

ノレイアの戦い

戦いの舞台となったノリクム

 

ノレイアの戦いは、キンブリ・テウトニ戦争(前113年〜前101年)中の前112年、ノリクムのノレイアにて、共和政ローマとキンブリ人・テウトニ人同盟勢力の間で行われた戦いです。

 

ローマ側がだまし討ちでキンブリ・テウトニ勢力の殲滅を目論むも、策略に気づかれたことで逆に相当な被害を受けてしまう結果になりました。

 

 

戦争の背景

紀元前120年から紀元前115年にかけ、スカンディナヴィア半島一帯に居住していたキンブリ人が南下を開始し、地中海世界のローマ勢力圏を脅かすようになりました。

 

紀元前113年には、ローマの北方防衛戦であるノリクム属州のドナウ川まで到達し、周辺に住んでいたタウリスキ族はこれを押さえることが出来なかった為、ローマに救援を求めました。

 

戦争の結果

ローマ側は執政官グナエウス・パピリウス・カルボを指揮官として、ノリクムに防衛戦を構築。そしてキンブリ人・テウトニ人に対し、ローマ軍の強大さを伝え、一戦交える前に立ち退くように警告しました。

 

キンブリ・テウトニ勢力は最初この要求に応じ立ち退こうとしましたが、カルボはそもそものこのこやってきた“蛮族”を逃がす気はなく、だまし討ちでの殲滅を目論んでいたのです。しかしこの目論見は気づかれてしまい、怒ったキンブリ人は進軍を開始。ローマ軍を圧倒し、この戦いはキンブリ族、テウトネス族の勝利と終わりました。

 

戦争の影響

ノレイアの戦いの影響は、共和政ローマに深刻な軍事的、心理的打撃を与えるものでした。この敗北により、ローマは自国の北方防衛線が脆弱であることを痛感し、北方の「蛮族」とみなしていたキンブリ人・テウトニ人の脅威を再評価する必要に迫られました。また、ローマの戦術的な油断や指揮系統の問題が露呈し、軍改革の必要性が叫ばれるようになりました。

 

キンブリ人とテウトニ人の勝利は彼らにさらなる勢いを与え、これ以降もローマ領への侵入が続きました。一方、ローマにとってこの戦いはマリウスの軍制改革へとつながる転換点となり、軍の制度や兵士の訓練が強化され、後の勝利の礎を築くきっかけとなりました。ノレイアの戦いはローマと「蛮族」の長期的な対立の始まりを象徴する重要な戦いだったのです。