サラミスの海戦

サラミスの海戦

ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハにより書かれたサラミスの海戦の様子

 

サラミスの海戦は、紀元前480年、アテナイを中心としたギリシア艦隊と、ギリシア征服を目論むペルシア艦隊がサラミス島近海で衝突した海戦です。ペルシア戦争最大かつ、ペルシアからのギリシア防衛を決定的なものにした決戦として名高いです。

 

 

 

サラミスの海戦の背景

サラミスの海戦直前に起こったテルモピュライの戦いでは、ペルシア軍によりギリシア最強のスパルタ軍が全滅させられ、第1次防衛線が崩壊してしまいます。同じ頃アルテミシオン沖にてギリシア連合艦隊は、ペルシア艦隊と激戦を繰り広げていました(アルテミシオンの海戦)が、第1次防衛戦崩壊の報を受け、最後の防衛線であるファレロン湾内サラミス島へと向かったのです。

 

サラミスの海戦の指揮官

アテナイの指揮官

サラミスの海戦におけるアテナイの指揮官はテミストクレスです。名門リュコミダイ家の出身で、ペルシア戦争においてはデルポイの神託「木の壁によれ」を「艦船」と解釈し、将軍として海軍力の強化に尽力。サラミスの海戦ではペルシア艦隊を狭い水路に誘い込むことで、壊滅に追いやることに成功し、ギリシア連合軍を勝利に導きました。

 

ペルシアの指揮官

サラミスの海戦におけるペルシア軍の指揮官はクセルクセス1世で、父ダレイオス1世死没にともない前486年に即位。父王の始めたペルシア戦争の指揮を引き継ぎました。前480年から大軍を率いてギリシア遠征を開始し、テルモピュライの戦いではスパルタレオニダス1世を打ち取る戦功をあげました。しかしその後サラミスの海戦では、テミストクレスの誘導に乗ってしまい、大敗。この敗北で戦意を喪失したクセルクセスはペルシアに帰還していきました。

 

 

サラミスの海戦の結果

サラミス島はギリシア最後の防衛戦で、ここを突破されればギリシア世界はペルシアの手中に収まったも同然でした。しかしそのようなプレッシャーの中、アテナイ将軍テミストクレスは冷静に作戦を練り、ペルシア艦隊を狭い水道内に誘い込み、小型船の機動力を活かしこれを殲滅することに成功したのです。この屈辱的な敗北を近くの海岸で見ていたペルシア王は、戦意を失いアジアへ撤退していったと伝えられています。

 

サラミスの海戦の影響

サラミスの海戦は古代ギリシアの歴史において重要な役割を果たしました。特に以下の三つの点でその影響は強く、長く続きました。

 

  1. ギリシアの独立の確保:サラミスの海戦は、ペルシャ戦争の重要な局面で、ギリシアの勝利により、ペルシャ帝国によるギリシア全土の支配を防ぐことに成功しました。この結果、ギリシアの都市国家は独立を保つことができ、その後の発展を遂げる基盤ができました。
  2. 民主主義の推進:サラミスの海戦で活躍した無産市民たちは、ギリシア、特にアテネの社会と政治の中で重要な役割を果たすようになりました。彼らの影響力は増し、それは後のアテネの民主主義の発展を促進する要因となりました。
  3. ギリシア文化の発展:ギリシアの都市国家が独立を維持したことで、その後のギリシア文化、とりわけ「古典期」の芸術、哲学、科学の発展が可能となりました。ペルシャからの影響を排除し、独自の文化を育む土壌が整いました。

 

以上のように、サラミスの海戦はギリシアの独立を守り、民主主義の推進や文化の発展に寄与した重要な出来事でした。