シチリアの晩鐘

シチリアの晩鐘

シチリアの晩鐘とは、1282年にシチリア島で発生した一揆で、フランス系のアンジュー家による支配に対する住民の激しい反乱を指します。この出来事は、復活祭の夜、シチリアの首都パレルモで始まりました。伝説によれば、晩鐘の音が反乱の開始の合図となり、シチリア島全土に広がる決定的な出来事となりました。

 

この反乱の背景には、アンジュー家の苛酷な支配に対する住民の強い不満がありました。1266年、シャルル・ダンジュー(アンジュー家のシャルル1世)がホーエンシュタウフェン朝を倒し、シチリア王国の支配者となりましたが、その統治は重税やフランス人支配者による地元住民の蔑視、過度な中央集権化などで島民にとって過酷なものでした。シチリアの晩鐘は、こうした長年の不満が一気に爆発した結果とされています。

 

反乱が始まったパレルモでは、フランス人支配者や駐屯兵が次々と襲撃され、島全体に反乱が広がりました。この混乱の中で、反乱軍は援軍を求め、アラゴン王国のペドロ3世に支援を要請しました。ペドロ3世はホーエンシュタウフェン朝の血を引く王妃を妻としていたため、シチリアの支配を正当化できる立場にありました。彼はこの機会を逃さず、シチリアに軍を送り、島の支配権をアンジュー家から奪取しました。

 

シチリアの晩鐘は、単なる一地方の反乱に留まらず、ヨーロッパ全体の勢力図に大きな影響を及ぼしました。この事件の結果、シチリア王国は二分され、南イタリアのナポリを拠点とするナポリ王国(アンジュー家支配)と、シチリア島を拠点とするトリナクリア王国(アラゴン家支配)に分裂しました。この分裂は「シチリアの晩鐘戦争」として知られる長期間の紛争を引き起こし、最終的には1372年のアヴィニョン条約でようやく和解が成立しました。

 

この出来事はシチリアだけでなく、地中海地域全体の歴史に重要な影響を与えました。シチリアはアラゴン王国の一部となることで、カタルーニャやスペインの影響を受け、文化的・経済的な結びつきが深まりました。また、この反乱は、中央集権的な外国支配に対する地方住民の抵抗運動の象徴ともなり、後のイタリアやヨーロッパ各地の反乱にも影響を与えたと言えます。

 

シチリアの晩鐘は、単なる反乱以上の意味を持つ出来事として、シチリアのアイデンティティや自立への意識を形成する一因となりました。また、ヨーロッパ史においても、大国間の政治的駆け引きや地域間の緊張がもたらす影響を象徴するエピソードとされています。