本協定は、人々の間の平和と愛と慈悲とを垂れたもうわれらが創造主、神の畏敬と栄光にかけて、このうえの人々の流血を阻まんがために、さらにはまた、この王国で久しきにわたり続いてきた忌まわしい数々の苛烈きわまる戦乱の折りおりに、憐れなキリスト教徒の身の上に降りかかった、またこの後もさらに降りかかることもあろう、恐ろしくもおぞましい数々の災禍、罪業と厄難、ならびに過酷にして耐えがたい抑圧と艱難辛苦とを終わらせんがために、決定されたものである。
百年戦争休戦協定『トゥール条約』前文より
百年戦争は、中世末期の1339年から1453年まで続いたイングランド王家とフランス王家の戦争です。フランスの王位継承権争いと、フランス内のイングランド領ガスコーニュ地方の帰属問題および毛織物工業地帯フランドルをめぐる対立が戦争の原因になりました。戦いが100年と長期にわたったのは、当時の西ヨーロッパ社会が内紛や疫病の蔓延で混乱していたことが背景にあります。
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1328年フランス王シャルル4世が跡継ぎを残さず没したためカペー朝が断絶。フランス貴族は当時のバロア伯(シャルルの従兄)を、フィリップ6世として即位させることにしました。しかしこれを受け、イングランド王エドワード3世は、母がカペー家の生まれであることを根拠にフランスの王位継承権を主張。フランスに宣戦・侵攻を開始し、百年戦争の戦端を開いたのです。
なぜイングランド人がフランス王位を主張?
なぜイングランド人がフランスの王位を迫るのか?と疑問に思うかもしれませんが、開戦時のイングランドの王朝プランタジネット朝というのは、フランスのアンジュー伯が開いた王朝であり、イングランドとフランス西部を領土にもっていました。そのためこの時代はまだイングランド人・フランス人といった意識が希薄で、「イングランド人がフランス王位を奪いに来た」というより、「フランス人同士の王位継承権争い」とみたほうが正確です。
戦争序盤はエドワード黒太子の活躍でイングランド優位に進みました。とりわけヨーマン(イングランドの独立自営農民)を中核とするイングランド長弓隊が戦果をあげ、クレシーの戦い、ポアティエの戦いでフランス騎士軍に大勝。1360年のカレー講和で領土を拡大するにいたっています。
立て直しを図るフランスですが、黒死病の流行や農民反乱、ブルゴーニュ派とアルマニャック派による内紛などで対イングランド戦に集中できず、1415年アジャンクールの戦で敗北、1428年には国王シャルル7世はオルレアンに包囲されてしまいます。
オルレアンを解放するジャンヌダルク
この絶体絶命の危機を救ったのが「神の声を聞いた」として立ち上がったジャンヌ・ダルクです。彼女の登場でフランス軍は奮い立たされ、1429年にオルレアンの解放に成功。フランスは一挙に攻勢に転じ、カレー市以外の全国土からイングランド勢力を一掃することで、百年戦争に終止符を打ったのです。
百年戦争の講和条約としては1420年にトロア条約というフランスのトロアにて締結された条約があります。この条約にもとづき婚姻したイギリス王とフランス王女の子が英仏両国の王位を兼ねる「二重帝国」の実現が目指されました。しかし結局、ジャンヌ・ダルクの活躍により1429年シャルル7世が王位についたため、トロア条約は破棄されたも同然となり、百年戦争を終結させる結果とはなりませんでした。
350万人
百年戦争をきっかけに現在に続くイギリスとフランスの国境が確定した。
前述したように、開戦時のイングランド王家はフランス王家の流れを汲み、西部フランスも領土に持っていたので、この戦争は「イングランド」と「フランス」という異なる国家間の対立というより、「フランス王家同士の内戦」にいう性格の強いものでした。しかしこの戦争でフランスからイングランド勢力が一掃されたことで、国境線が確定し、「イングランド」と「フランス」という異なる国家として別々の道を歩むようになるのです。
また戦後はフランス・イングランド両方で封建領主の没落が始まり、王権の伸長と国王による中央集権化が進みました。こうしてヨーロッパは、同時期のスペイン王国の台頭も含め、しだいに「国民国家」が台頭する時代にシフトしていくのです。
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