ナポレオン戦争

ナポレオン戦争

ナポレオン戦争最大規模の戦い・ライプツィヒの戦い

 

ナポレオン戦争は、1796年から1815年にかけて、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍絶対王政諸国による対仏大同盟軍の間で繰り広げられた戦争です。この戦争は革命家ナポレオンによるヨーロッパ征服戦争であり、その襲来を受け神聖ローマ帝国ヴェネツィア共和国といった中世来の強国が崩壊に追い込まれています。ナポレオンは一時、大陸ヨーロッパ全土を支配下に置くほどの勢いを持っていましたが、1812年ロシア戦役以来は防戦に回り、1815年ワーテルローの戦いにおける敗北で失脚。彼のヨーロッパ征服の野望は挫かれました。

 

しかしこの「ナポレオン旋風」は、各国のナショナリズムを喚起したというだけでなく、フランス革命の「自由」「平等」などの精神も同時に拡散されたことで、近代市民社会形成の転機となりました。

 

 

 

ナポレオン戦争の前史

フランスは1789〜91年の革命運動でアンシャン・レジーム(旧体制)から脱却。しかしその直後、革命運動の波及を恐れた絶対王政諸国がフランスの内政に介入したことから、フランス革命戦争(1792〜99年)が勃発します。この戦争は最初こそ外国の干渉に対するフランスの「自衛戦争」という性格が強かったものの、やがて革命の理念拡大を大義名分に外国に軍を送り込む「侵略戦争」に変貌しました。そしてその指導者に選ばれたのが、類まれな軍才を持つ「革命の申し子」ナポレオン・ボナパルトなのです。

 

ナポレオン戦争の開始

ナポレオンはイタリア遠征(1796年)を大成功に導いた栄光を背に(当時わずか26歳)、一気に「フランス人民の皇帝」に昇りつめました(1804年)。そして「自由・平等・友愛の世界を作り、ヨーロッパの人々を専制君主から解放するのだ」と愛国心をうまく鼓舞して、大勢の国民を侵略戦争に動員。そうして編成されたフランスの軍隊は士気が高く強力で、対仏大同盟軍は大変な苦戦を強いられました。そしてついにはイギリススウェーデンを除く全ヨーロッパがナポレオンの手に落ち、ヨーロッパ各地にフランスの衛星国が建設されたのです

 

 

ナポレオン戦争の終結

対仏大同盟軍(中心はイギリス)とナポレオン軍の戦いは数次にわたって続きました。序盤は負けなしだったナポレオン軍もイギリスの国力と戦術に徐々に押し返され、1808年にはスペインにおける戦い(半島戦争)で初めて敗戦を喫します。そして1812年ロシア遠征での大敗北が転機となり防戦一方に。最後に1815年ワーテルローの戦いで敗れたことでナポレオンの野望は完全に挫かれたのです。その後彼はセントヘレナ島に幽閉され寂しい余生を送りました。

 

ナポレオン戦争の影響

近代市民社会の成立

ナポレオン戦争後、戦時中に壊されたヨーロッパ秩序を再建すべくウィーン会議が開催されました。簡単にいえばフランス革命以前の絶対王政社会に戻そうとしたのです。しかしフランス革命の精神(「自由」や「平等」)はすでに拭い去ることが出来ないほどヨーロッパに定着していたため、新しく始動した保守反動体制(通称ウィーン体制)には、年々反発が高まっていきます。そして終戦から30年ほどたった1848年、ヨーロッパで同時多発的に市民革命(諸国民の春)が勃発し、ウィーン体制は崩壊。近代市民社会への本格的な移行が開始されたのです。

 

ナポレオン戦争後、戦後のヨーロッパ秩序を話し合うべく、ヨーロッパ各国の代表によるウィーン会議が開催された。その結果ウィーン議定書が締結され、この議定書により「ウィーン体制」と呼ばれる新たなヨーロッパ秩序が現出した。

 

国民皆兵制度の普及

ナポレオン戦争が今までの戦争と違うのは、軍隊が国民で編成されているという点です。それまでの戦争といえば、騎士や傭兵など専門集団が行うものだったのですが、ナポレオンは初めて、独立農民を中心とした国民軍を大規模に運用したのです。いわゆる国民皆兵制度というもので、進んで参戦するため士気が高いのが特徴です。実際その強さを目の当たりにしたヨーロッパ諸国が、戦後次々と国民皆兵制度を導入していったことで、近代的戦争への転機となりました。

 

 

 

世界中の市民法に影響

ナポレオン旋風を通して、農奴制の廃止、特権階級の廃止、憲法制定、普通選挙、議会の設置、経済活動の自由、民族自立、国民主権などなど、諸々の近代的価値観を規定した「ナポレオン法典」がヨーロッパ中にもたらされました。ナポレオンが失脚してもこの法典は後世にも受け継がれ、ヨーロッパどころか日本含め世界中の市民法のモデルとされるようになります。

 

ヨーロッパの同一性を促進

かつてヨーロッパを統一したローマ帝国の法典(ローマ法)が後世ヨーロッパの制度的基盤になったように、一時的にでもヨーロッパを統一したナポレオン帝国の法典(ナポレオン法典)も、後世ヨーロッパの重要な制度的基盤となりました。ヨーロッパ全土を巻き込んだこの戦争によって、ヨーロッパはかえってその同一性を強めていくことになるのです。

 

ナショナリズムの高まり

ナポレオンは途中から皇帝(独裁者)となり(1804年即位)抑圧的な体制を敷いてしまったので、彼の支配地域では熱狂的なほどにナショナリズム(民族運動)の高まりがみられました。ナポレオンが広めたかった「自由」や「平等」といった精神が、ナポレオン支配からの解放を目指すナショナリズムに変換されてしまったことは、彼にとって相当の皮肉であったといえるでしょう。

 

エジプト研究の促進

ナポレオンのエジプト遠征を通じて、ヨーロッパでエジプト研究が積極的に行われるようになりました。このことでロゼッタストーンの発掘という歴史的な偉業にも繋がっています。

 

ナポレオン戦争の戦い一覧

  • イタリア遠征
  • マレンゴの戦い
  • アウステルリッツの戦い
  • トラファルガーの海戦
  • イエナの戦い
  • フリートラントの戦い
  • スペイン反乱(半島戦争)
  • ロシア遠征
  • ライプチヒの戦い
  • ワーテルローの戦い