
第六次パルティア戦争におけるローマ軍の拠点アンティオキア
パルティア戦争とは、古代ローマとアルサケス朝パルティアとの間で、紀元前53年から紀元後217年まで、八次にわたり行われた戦争です。パルティアは、西アジアの広い範囲(現在のイラク、イラン、トルクメニスタンなど)を支配下に置いていた古代イランの王朝で、前1世紀頃から地中海世界で覇権を広げるローマと、アルメニアやメソポタミアなどの支配権を巡りたびたび衝突していました。ローマとの長期に渡る戦争で疲弊していき、国内の混乱に乗じてアルデシール一世が反乱を起こし、226年パルティアを征服することでササン朝ペルシアを成立させました。以下でそんなパルティア戦争の原因・結果・影響について、さらに詳しく掘り下げていきます。
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パルティア戦争の原因は、地中海東部や中東地域での覇権を巡る、古代ローマとパルティアの対立にありました。当時、ローマは東方への領土拡大を積極的に進めており、シリアやアルメニアなどの地域を自国の勢力圏に組み込むことで、東西貿易の要衝を押さえる戦略を展開していました。一方で、パルティアはメソポタミアやアルメニアを自らの影響下に置き続けることで、ローマの浸透を食い止めようとしていました。
また、両国の政治的体制や文化の違いも衝突を招いた要因です。ローマが拡張主義と軍事力を背景に支配を広げる一方、パルティアは騎兵を主力とする独特の軍事制度と、サトラップ制による分権的な統治で対抗しました。この緊張関係は、メソポタミアやアルメニアなどの緩衝地帯でしばしば武力衝突へと発展していったのです。
最初の直接的なきっかけは、紀元前53年、クラッススによるパルティア遠征で始まりましたが、この背景にはローマの東方政策全体とパルティアの防衛的な姿勢が深く関係していたといえるでしょう。
紀元前53年のカルラエの戦いでは、パルティア軍がローマ軍を撃破し、クラッススを討ち取ることでローマに大きな打撃を与えました。その後も両国は断続的に戦争を続けましたが、ローマの攻勢が成功する時期もあれば、パルティアが優位に立つ時期もあり、一進一退の攻防が長期化しました。
しかし、紀元後2世紀に入ると、ローマはトラヤヌス帝やセプティミウス・セウェルスの遠征で一時的にパルティア領の一部を占領するなど、戦果を挙げることに成功します。最終的に、パルティアは国内の統治に支障をきたし、内乱に陥ります。この混乱を利用して、226年にアルデシール1世が反乱を起こし、ササン朝ペルシアを成立させることで、パルティアは滅亡しました。
パルティア戦争を通じて、ローマとパルティアの両国は共に疲弊しました。ローマ側にとって、この長期戦は東方拡大の限界を示すものとなり、広大な領土を維持するための財政的・軍事的負担が大きくのしかかりました。一方で、ローマは戦争の中でアルメニアやメソポタミアへの影響力を一時的に強化するなど、東方政策の基盤を築く成果も挙げました。
最も大きな影響は、226年のパルティア滅亡後に登場したササン朝ペルシアが、ローマにとってさらに強大なライバルとなった点にあります。この結果、ローマとペルシアの間で続く数世紀にわたる新たな闘争の幕が開けたのです。
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