ペルシア戦争の戦いの一つ「テルモピュライの戦い」を描いた絵画。スパルタのレオニダス率いるギリシア連合軍が、圧倒的戦力を誇るペルシア軍相手に奮闘し、玉砕を遂げた。
ペルシア戦争は、紀元前499年から紀元前449年にかけ、ギリシア諸ポリスの連合とペルシア帝国との間で3度に渡って行なわれた戦争です。ペルシア帝国に対して隷属か自立かを分かつ決死の戦いであり、戦後は政治体制の大きな変革が起きるなど、古代ギリシア史にとって重要な画期となりました。
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ペルシアは小アジア沿岸のイオニア地方を支配下に置いていましたが、イオニア地方はギリシア本土の対岸にあたり、古来よりギリシア植民市が置かれている地方でもありました。そんな中で前499年、ペルシア支配への不満からギリシア植民市のイオニア人がペルシアへの反乱を起こすのです(イオニアの反乱)。しかしイオニア反乱軍は鎮圧されてしまい、ギリシアはペルシアの脅威が目前に迫る状況に立たされてしまいました。ペルシア皇帝ダレイオス一世も、ギリシア本土征服を本格的に企てるようになるのです。
アテナイの指導者テミストクレス
ペルシア戦争におけるアテナイの指導者はテミストクレスです。アテナイの将軍(ストラテゴス)として国を指導し、ペルシアの襲来に備え海軍力の強化につとめたことで、サラミスの海戦の勝利に大きく貢献しました。しかし戦後はペルシア戦争における名声を背景に、必要以上に権力を欲するようになったので、陶片追放によってアテナイを追われています。
スパルタの指導者レオニダスの銅像
ペルシア戦争におけるスパルタの指導者はアギス朝のスパルタ王レオニダス1世です。前480年テルモピュライの戦いにおいて、圧倒的な戦力差があったにも関わらず、ペルシアの大軍を前に奮闘し、壮絶な戦死をとげました。しかしこの奮闘のおかげでアテナイはサラミスの海戦の準備を整えることができ、ペルシア軍に勝利、ペルシア戦争におけるギリシア優位の状況を作ることがでいたのです。
ペルシアの指導者ダレイオス1世
ペルシア戦争におけるペルシアの指導者はアケメネス朝のペルシア王ダレイオス1世とその後を継いだクセルクセス1世です。ダレイオス1世がギリシア遠征でペルシア戦争の口火を切り、ダレイオス1世没後(前486年〜)はクセルクセス1世が指導を引き継ぎました。クセルクセス1世は自身も遠征に参加し、テルモピュライの戦いではスパルタ王レオニダス1世を打ち破る功をあげるも、サラミスの海戦で敗れたことで戦意喪失し、帰国しています。
紀元前492年、ペルシア軍は、イオニア反乱時にアテナイが介入してきたことを口実に、ギリシア心臓部目指して進軍を開始します。当時のギリシア諸ポリスは内乱により仲たがい状態でしたが、アテナイ主導の会議に諸ポリスの代表が集まり、即時紛争の停止が決議、ペルシアに一体となって対抗するギリシア連合が成立しました。
両軍の海軍力の差が如実に現れたサラミスの海戦
戦争序盤はペルシア優位の戦況が続きましたが、サラミスの海戦(前480年)、プラタイアイの戦い(前479年)、ミュカレの戦い(前479年)で戦力差をひっくり返すギリシア連合の巧みな戦術を目の前に、ペルシアは戦意を喪失し撤退。前449年カリアスの和約が結ばれたことで戦争は終結しました。
ペルシア戦争はギリシア連合軍の決定的勝利に終わり、戦後はデルポイにアテナイ、スパルタ、コリントスなど諸ポリス連名の戦勝記念碑が建てられるなどしました。それまでギリシアポリスは覇権争いを繰り広げていましたが、ペルシアという共通の敵を前に結束したのです。
しかしその結束は長くは続きませんでした。ペルシア戦争後、アテナイはペルシア再来に備えて結成されたデロス同盟を介して、他のポリスに服属を迫りました。加盟国から集めた軍資金を自国の発展に注ぎ込み、同盟から抜けようとしたポリスには軍を派遣し、無理やり屈服させていました。
一方同じくペルシア戦争の功労者となったスパルタは、ペロポネソス半島の諸ポリスによりペロポネソス同盟を結んで、帝国化するアテナイを牽制します。こうしてギリシアはデロス同盟勢力とペロポネソス同盟勢力に二分され、ペルシア戦争前の内戦状態に戻ってしまうのです。その末にペロポネソス戦争というギリシア全土を巻き込んだ戦争に発展していきました。
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