
南ロシアの反ボルシェビキ義勇軍(1918年1月撮影)
ロシア内戦(1917年〜1922年)は、ロシア革命後に起こった大規模な内戦であり、社会主義勢力(赤軍)と反革命勢力(白軍)が旧ロシア帝国領全土で衝突しました。この戦いには、英仏や日本、アメリカなどの外国勢力も介入し、世界的な影響を与えました。内戦は最終的に赤軍が勝利し、ソビエト政権の一党独裁体制が完成し、世界初の社会主義国家が誕生する結果となりました。
|
|
|
|
1917年の十月革命によって、ボリシェヴィキが権力を掌握しました。この突然の体制転換に対し、旧ロシア帝国の支配層や地主階級、そして一部の中産階級が強く反発し、国内での対立が激化しました。また、臨時政府や自由主義的勢力が失脚したことで、国内の安定が完全に失われました。
ボリシェヴィキは土地改革や工業国有化を推進しましたが、その急激な社会変革は、富裕層だけでなく、一部の農民や労働者層からも反発を招きました。特に、農民層においては、自由な土地の分配を求める声が高まる一方で、ボリシェヴィキの政策がその期待に応えない部分もあり、支持基盤の一部が不安定化しました。
第一次世界大戦での同盟国であった英仏をはじめとする連合国は、ロシア革命による社会主義体制の拡大を強く警戒しました。彼らは白軍を資金的・軍事的に支援し、実際に軍隊を派遣して干渉を行いました。この国際的な関与は内戦を長引かせ、さらに複雑な国際的利害関係を生み出しました。
十月革命直後、ロシアは第一次世界大戦からの離脱を目指し、1918年にブレスト=リトフスク条約をドイツと締結しました。 この時期、赤軍は反革命勢力や地方の民族運動と小規模な戦闘を繰り返していました。
1919年3月から11月にかけて、白軍が各地で反攻を開始しました。シベリアのコルチャーク、南部のデニーキン、西部のユデニッチが中心的な指導者として活動しました。 しかし、赤軍はトロツキーの指導のもと兵力を増強し、戦略的勝利を収め、内戦の趨勢を決定づけました。
白軍はクリミア半島を最後の拠点として抵抗を続けましたが、1920年に壊滅的敗北を喫しました。 その後、赤軍は地方の反乱や外国勢力の残存部隊を排除し、1922年に内戦が終結しました。
赤軍の勝利により、1922年にソビエト連邦が成立しました。これは世界初の社会主義国家であり、一党独裁体制のもと、国家が経済や社会のあらゆる側面を統制する体制が導入されました。この体制は以後、世界的な社会主義運動のモデルとなりました。
ロシア内戦は国内に壊滅的な影響を及ぼしました。
内戦による直接的な戦死者のほか、飢饉や疫病による犠牲者を含め、数百万人が死亡しました。これにより、ロシア社会の人口構成や労働力に深刻な影響が及びました。
内戦により工業生産は急激に低下し、農業も荒廃しました。多くの都市が戦闘の影響で破壊され、インフラの復旧には長い時間を要しました。この状況は後の新経済政策(NEP)の導入へと繋がります。この影響を受けたロシアは、内戦後も復興に苦しみながらも、世界的な社会主義体制の象徴として影響力を拡大していきました。
ロシア内戦における連合国(イギリス、フランス、日本、アメリカなど)の干渉は、白軍の支援を通じて社会主義体制の成立を阻止する試みでした。しかし、これらの干渉は戦略的な統一を欠き、十分な成果を上げることができませんでした。この失敗は、国際的な社会主義革命の拡大を抑止する機会を失う結果を招きました。
ロシア内戦での社会主義勢力の勝利は、世界中の労働者運動や共産主義勢力に大きな影響を与えました。特に、ロシア革命を成功例とみなした各国の共産党が次々と結成され、1920年にはコミンテルン(第三インターナショナル)が設立されました。これにより、社会主義革命の思想が世界的に広まり、植民地地域や資本主義国での反乱や改革運動を促進する契機となりました。
ロシア内戦の国際的影響は、単に地域的な出来事に留まらず、20世紀の世界秩序を再構築する上で大きな役割を果たしました。この影響は、冷戦の幕開けや国際政治のイデオロギー対立の基盤を形成する重要な一歩でもありました。
ロシア内戦は、国内の大規模な政治的・社会的変革だけでなく、国際社会の秩序にも影響を与え、20世紀の世界史を大きく方向付けた出来事でした。
|
|
|
|