
フロンドの乱の中で起きた、バスティーユ城壁下での戦闘
ルイ14世が幼少期に経験した、フランス史上重要な反王政運動であるフロンドの乱は、摂政マザランの中央集権化政策や増税に対する反発から発生しました。この乱は、フランス社会の矛盾を浮き彫りにするとともに、絶対王政確立への重要な転機となりました。
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「フロンド(Fronde)」とは、当時パリの子どもたちが遊んでいた投石器具を指します。反乱初期に民衆がマザラン邸に向けて投石したことから、この名前が付けられました。この名称は、反抗の象徴としてフランス全土で用いられるようになりました。
フランスは三十年戦争(1618〜1648年)の軍事費を賄うため、増税を強行しました。この負担は民衆や地方の農民に重くのしかかり、不満が高まっていました。
ルイ13世とリシュリュー、続くマザランが推進した政策が貴族の特権を侵害し、彼らの反発を招きました。
外国人であったマザランはフランス国内で支持基盤が弱く、その財政政策や個人的な贅沢が批判の的となりました。
パリ高等法院がマザランの財政政策に反発して国王政府に改革を要求。これがきっかけで、パリ市民が蜂起し、暴動が広がりました。王室は一時パリを脱出しますが、最終的に譲歩を余儀なくされます。
新旧貴族が王政に対抗して反乱を主導。内部分裂や外国の介入による混乱もあり、一時的にパリで共和政府が樹立されました。しかし、最終的にはマザランと王党派の攻勢により鎮圧されました。
フロンドの乱を経て王権は強化され、中央集権化が一層進展しました。ルイ14世は、この乱の経験を元に貴族を徹底的に抑え込む政策を採用し、絶対王政を確立します。
剣の貴族(旧貴族)が力を失い、代わりにローブの貴族(新興官僚貴族)が台頭しました。
民衆は一部で反乱に加担したものの、戦後の生活は改善されず、むしろ税負担がさらに増しました。
フロンドの乱を鎮圧したことにより、フランスの統一と国家主導の政治体制が確立される方向性が固まりました。
フロンドの乱は、短期的には貴族や民衆の反王政運動でしたが、最終的にはその失敗がフランス絶対王政の確立を促進しました。この反乱は、中央集権化と国家統一を進める上での試練であり、ルイ14世の治世の方向性を決定づける重要な出来事でした。
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