アフリカ分割とは、19世紀末から20世紀初めにかけて行われたヨーロッパ帝国主義列強による大規模なアフリカ進出政策(植民地化)のことです。資源の宝庫アフリカ大陸をめぐる「陣取り合戦」の激化は、帝国主義間(とりわけ英仏とドイツ)の対立を深め、第一次世界大戦の下地を固めていきました。
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ヨーロッパ諸国のアフリカ進出は、大航海時代からすでに行われていましたが、その支配領域は「奴隷市場」としての沿岸部に限られていました。黒人奴隷は内陸国から購入すれば済んだので、それ以上支配を広げる必要はなかったのです。
しかし19世紀に入り、近代資本主義が勃興、工業生産需要が飛躍的に増加すると、原料が豊かというだけでなく、取引先としても有力であるアフリカに改めて目が向けられます。奴隷貿易はすでに廃止に向かっていたため、今度は「工業製品の市場」として内陸部にまでおよぶアフリカ支配が推し進められるようになったのです。
1870年代イギリスによるエジプト征服に端を発し、フランス、ドイツ、イタリア、ポルトガルとヨーロッパ列強がこぞってアフリカへの進出を開始しました。当然のように利害対立が起こったことから、ビスマルク立ち合いのもと、欧米14か国でベルリン会議(1884〜85年)が開催。対立の収拾が図られました。
1898年、アフリカ“縦断”政策を進めるイギリスの軍隊と、アフリカ“横断”政策を進めるフランスの軍隊が、スーダン南部のファショダにて鉢合わせになる事件が発生します。外交問題からあわや英仏戦争寸前にまで発展しましたが、フランスが譲歩して撤退し、英仏協商(1904年)で和解、両国のアフリカにおける勢力範囲が決定しました。
アフリカ北西端モロッコの支配権をめぐり、フランスとドイツが対立。モロッコ事件(1905年タンジール事件・1911年アガディール事件)と呼ばれる国際紛争に発展しました。いずれもフランス側の外交的勝利となりましたが、この事件によるドイツの国際的孤立は、来たる大戦の大きな要因の一つになりました。
20世紀初頭にはイギリスが南アフリカを、イタリアがリビアを獲得したことで、リベリア、エチオピアを除くアフリカ全領域がヨーロッパ諸国の植民地もしくは保護領となり、アフリカ分割は終了しました。最終的に各国が獲得した領域は以下の通りです。
エジプト、スーダン、南アフリカ、東アフリカ(ケニア、ウガンダ)
北アフリカ(アルジェリア・チュニジア・モロッコ)、東アフリカ(マダガスカル、ソマリランドなど)、西アフリカ(ギニア、スーダン、モーリタニア、ギニアなど)、赤道アフリカ(コンゴ、ウバンギ・シャリなど)
カメルーン、東アフリカ(ブルンジ、ルワンダ、タンガニーカ)、南西アフリカ
コンゴ
リビア、ソマリランド、エリトリア
ギニア(ビサウ)、アンゴラ、モザンビーク
西サハラ、イフニ、赤道ギニア
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