ヨーロッパ最大の工業地帯「ルール工業地帯」の発展理由

ドイツ北西部ルール地方にあるルール工業地帯はヨーロッパ最大の工業地帯と言われています。ヨーロッパ工業の仕組みや歴史を理解する上で外せない場所なので、その発展理由的背景について知っておきましょう。

 

 

ルール工業地帯とはどんな場所?

ルール工業地帯があるルール地方は、ルール川下流域に広がる4435km2もの面積、約600万人の人口を抱えるドイツ屈指の大都市圏です。「ルール炭田」と「ライン川」の水運を背景に、鉄鋼、輸送機械、化学など各種製造業が飛躍的な発展を遂げました。近代から戦後にかけてドイツの重工業を牽引し、現在も工業地域としてはドイツ最大です。

 

歴史的重要性

ルール工業地帯の歴史的重要性は、その地理的位置と資源の豊富さに起因します。19世紀に入ると、この地域はドイツ工業化の中心地となり、特に第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、その重要性は増しました。

 

戦争期間中、ルール地方は重要な軍需産業のハブとして機能し、大量の鋼鉄と武器の生産を担っていました。この地域の工業化は、ヨーロッパ全体の工業発展に大きな影響を与え、多くの技術革新をもたらしたのです。今日でも、ルール地方はドイツ経済にとって重要な役割を果たしており、多くの国際企業がここに拠点を構えています。

 

ルール工業地帯の3つの発展理由

1.ルール炭田

ライン川の支流ルール川の沿岸に存在する炭層地帯です。世界最大の炭田の1つで、石油埋蔵量は約600億トンとされています。ドイツの石炭産出の7割はここから産出されています。

 

ルール炭田の発見

ルール炭田の発見は、ルール工業地帯の発展にとって不可欠な要素でした。この豊富な石炭資源は、19世紀における工業革命の原動力となり、特に鉄鋼業の成長に大きく貢献しました。この地域から採掘された石炭は、高品質でエネルギー密度が高く、鉄鋼生産に最適だったのです。

 

その結果、この地域には多くの製鉄所が設立され、次第にルール地方はヨーロッパの工業生産の中心地としての地位を確立しました。さらに、石炭の需要の増大は、鉄道網の拡張や新しい技術開発を促し、ルール地方の経済発展をさらに加速させました。

 

2.ライン川

ライン川は、ルール工業地帯の発展にとってもう一つの重要な要素です。ライン川はスイスアルプスからオランダにかけて流れる全長1233kmの川で、うち698kmがドイツを流れています。ルール工業地帯はライン川下流に位置しており、ドイツの貨物取り扱いの3分の2はこのライン川の港で行なわれているのです。

 

産業革命以降、ライン川は、ルール地方から生産される製品の輸送手段として重要な役割を果たし、地域の経済発展に不可欠な存在になりました。また、ライン川沿いには多くの港が建設され、これらの港はヨーロッパ全体の物流において中心的な役割を担いました。このように、ライン川はルール地方の製品をヨーロッパ各地へ輸送するための重要な水路として機能し、地域経済の発展を支えてきたといえるでしょう。

 

3.貨物列車

貨物列車の発展は、ルール工業地帯の重要な成長要因の一つであり、特にオランダ・ロッテルダム港とルール地方を繋ぐ貨物列車「ベートゥヴェルート」は、ドイツにおける物流の要です。

 

ベートゥヴェルートを通じて、ルール地方で生産される鉄鋼製品や化学製品などがヨーロッパ全土に輸送されるため、運行開始以来、ルール地方の工業製品の市場へのアクセスを大きく向上させ、地域経済の拡大に大きく貢献してきました。さらに、この路線は地域間の経済連携を強化し、ドイツだけでなくヨーロッパ全体の経済発展に重要な役割を果たしているのです。

 

ルール工業地帯の歴史年表

出来事
1298年 ルール地方で石炭の採掘が始まる。
1893年 「ライン・ヴェストファーレン石炭シンジケート」と呼ばれるルール地方一帯の資源協定ができる。
1923年 フランス第一次世界大戦の賠償で石炭や鉄による現物支払いを求め、ルール地方を占領。激怒したドイツ国民のストライキで工場が全面停止し、ドイツ経済が破綻状態になる。
1929年 世界恐慌の煽りを受け、失業者が続出する。
1936年 ドイツ再軍備宣言で軍需産業に勢いが出て、大量の雇用が生まれる。ヒトラーがルール地方に軍事進駐を強行。
1939年 ドイツのポーランド侵攻が引き金となり第二次世界大戦が勃発。ルール工業地帯は米英軍の戦略爆撃の重点的な攻撃目標となる。長期間の攻撃の結果工業機能が完全に麻痺した。
1945年 連合軍によるルール地方の包囲戦が開始される。ナチスドイツの最後の組織的抵抗で、30万人以上のドイツ兵士が捕虜となった。この包囲戦(ルール・ポケット)を最後にドイツは降伏、終戦を迎える。
1945年 賠償としてルール地方の工場・施設は西欧諸国の管理下におかれた。
1948年 ルール国際機関が定められ、西欧諸国の管理はあくまで占領中の暫定的なものとされた。
1952年 欧州石炭鉄鋼共同体 (ECSC) が結成され、ルール地方の国際管理が終わる。

 

ヨーロッパ史においてルール工業地帯の重要性は計り知れません。19世紀の工業革命を通じてこの地域は、豊富な石炭資源とライン川の水運により急速に発展しました。特に、ルール炭田はドイツ重工業の心臓部となり、鉄鋼生産や軍需産業の中心地として第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に顕著な役割を果たしています。戦後、この地域は再建と経済成長の象徴として、ヨーロッパ経済の一翼を担う重要な産業基地としての地位を維持し、ヨーロッパ工業の発展における重要な節点となっており、その影響は現代に至るまで続いているのです。