現下の大問題の解決は、演説や多数決によってではなく、鉄と血によってなされる。
オットー・フォン・ビスマルク『鉄血演説』より
ドイツ統一は、19世紀後半に、プロイセン王国主導で行われたドイツ領邦の統一、およびそれにともなうドイツ帝国成立のことです。その後ドイツ帝国は急速な工業発展を遂げていき、ビスマルクの「鉄血政策」のもと、イギリス・フランスを始めとするヨーロッパ列強の利権を脅かすようになります。
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ナポレオン戦争の中、それまでドイツ領邦を束ねていた神聖ローマ帝国が崩壊(1806年)。戦後のウィーン会議(1814〜15年)で、旧神聖ローマ帝国の構成国からなる連合体「ドイツ連邦」が結成され、以後オーストリアとプロイセンが連邦の主導権を巡り争うようになりました。
1834年、プロイセン主導で、連邦内の関税障壁を取り払うドイツ関税同盟が成立し、ドイツの経済的統一を促しました。のちにオーストリア以外全ドイツ諸邦が加わるこの同盟は、ドイツ統一の下地となりました。
1848年、フランスの二月革命の影響を受け、ドイツ各地で市民革命が勃発(三月革命)。民族運動の高まりの中、フランクフルト・アム・マインでは、ドイツ最初の全国的議会で、自由主義者らが中心をなすフランクフルト国民議会が開催されています。
結果的には「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」が対立して形にはならなかったものの、この国民議会の中でドイツ憲法制定や統一構想の話が具体的に進行したことは重要です。
19世紀後半からは、工業先進地帯ラインラント有するプロイセンを中心に、ドイツ資本主義工業が急速に発展していきました。同時に関税同盟を背景とした、ドイツの経済的統合もさらなる進展を遂げたのです。
1862年、反革命主義者として知られるビスマルクがプロイセン首相に任命され、ドイツ統一のために富国強兵・対外強硬策を推進するようになります。そしてビスマルクはその必要性を訴える際
「現下の大問題に決着をつけるのは演説や多数決ではなく、鉄と血だ」
と「鉄血演説」と呼ばれる有名な演説を行い、つまりドイツ統一に必要なのは、「鉄」と「血」…すなわち「戦争」と「犠牲」であると豪語したのです。以後議会の反対を押し切って行われた彼の統一強硬政策は「鉄血政策」と呼ばれるようになりました。
ドイツ統一を指導した鉄血宰相ビスマルク
「小ドイツ主義」に基づくドイツ統一を目指し、軍拡と領土拡張を推し進めるビスマルクは、1866年フランスとビアリッツの密約を結んだうえでオーストリアに宣戦布告。見事これを撃破し、オーストリアを盟主とするドイツ連邦を解体してしまいます。同時にプロイセンを中心とした22の領邦からなる北ドイツ連邦を成立させ、ドイツ統一に王手をかけたのです。
オーストリアという邪魔者がいなくなってもなお、ドイツ統一の障壁になっていたのは、その強大化を恐れ統一政策を妨害してきた隣国フランスでした。そこでビスマルクは、フランスの反ドイツ感情を利用し、向こうからの宣戦を仕向ける形で、普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)を引き起こします。
普仏戦争で「マルス=ラ=トゥールの戦い」でフランス砲兵隊に突撃するプロイセン騎兵
待ってたとばかりにプロイセンはこれ迎え撃ち、連戦連勝を重ねていきました。そしてまだ戦いの最中だったにも関わらず、71年1月プロイセン国王ヴィルヘルム1世を皇帝に迎えドイツ帝国の成立を宣言してしまうのです。そして同年中に普仏戦争にもしっかり勝ち抜き、ドイツ統一を完全なものにしました。
なおドイツ帝国は「神聖ローマ帝国の継承国」という意味で、「第二帝国」とも呼ばれるようになりました。のちに誕生するナチス・ドイツが「第三帝国」を名乗ったのはこのためです。
ドイツ帝国のその後の経済発展は目覚ましく、特に重工業では、第一次大戦前までにイギリスの生産量を凌駕するほどの飛躍をみせました。またアフリカを舞台にした植民地競争にも参入し、イギリスやフランスの利権を圧迫。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、フランスが権利を主張するモロッコ・タンジールをパレードする様子。ドイツ孤立に繋がるモロッコ事件(タンジール事件)の発端となった。
ドイツの伸長をきっかけに長年対立してきた英仏は接近を始め、逆にドイツは両国との対立から国際的孤立を深めていきました。こうしてヨーロッパでは、バルカン半島情勢の緊張も合わさり、第一次世界大戦の下地が形成されていったのです。
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