クレタ(ミノア)文明

クレタ(ミノア)文明

紀元前30世紀頃から前12世紀頃までにかけて、エーゲ海周辺で栄えていたいくつかの青銅器文明の総称をエーゲ文明といいます。このうち地中海のクレタ島で栄えた青銅器文明をクレタ文明(ミノア文明)といいます。クレタ文明は、地中海をへて伝わってきた中東オリエント文明を独自に発展させることで成立しました。前20世紀から前15世紀頃にかけエーゲ海全域で圧倒的存在感を放ちましたが、15世紀半ばに突如崩壊してしまいます。

 

 

クレタ文明の発見者

クレタ文明の証拠を発見したのはイギリスの考古学者であるアーサー=エヴァンズです。ミケーネ文明の証拠を発見したシュリーマンに感化され、クノッソス遺跡の発掘を行いクレタ文明の存在を証明しました。

 

エヴァンズの発掘作業は、1900年に始まり、クノッソスで多数の証拠を発見、クレタ文明が高度に発達した独自の文化を有していたことを証明しました。遺跡からは、壁画、陶器、リニアA文字が記された粘土板など、貴重な遺物が数多く見つかり、後の研究において重要な手がかりとなったのです。

 

クレタ文明の特徴

クレタ文明、またの名をミノア文明とも呼ばれるこの文化は、ギリシア本土のヘラディック文明と深いつながりを持ちながら、独自の進化を遂げました。ミノア文明が滅びた後、エーゲ地域の文化的な中心として、その遺産を引き継いだのがミケーネ文明です。ミノア文明との共通点は多々ありますが、社会背景の違いから生じる独自の特色も見逃せません。

 

クレタ島の場所

クレタ文明の中心地クレタ島

 

クレタ島はギリシア本土南方160kmほどの海域に浮かんでいます。エーゲ海の最南端に位置し、島自体が地中海とエーゲ海の境界になっています。

 

繁栄年代

クレタ文明は紀元前2000年頃から紀元前1450年頃にかけて繁栄しました。この時期、クレタは地中海貿易の中心地として、経済的な豊かさと文化的な成熟を極めました。

 

繁栄地

中心地はクレタ島ですが、その影響力はエーゲ海全域に及びました。クレタ島内ではクノッソスが特に有名で、この地には巨大な宮殿が存在し、政治の中心であり、文化の発信基地でもありました。

 

文字

線文字A

 

クレタ文明の人々は線文字A文字を使用していました。この文字は未だ完全には解読されておらず、ミノア文明の多くの側面を今もなお謎に包まれています。後にミケーネ文明では線文字B文字が使用され、これは解読されており、両文明の文字使用の違いが興味深い研究対象となっています。

 

墓制

クレタ文明では大規模な墓地が見られず、個々の埋葬は比較的控えめです。これに対し、ミケーネ文明では豪華な墓制が確立され、王や貴族は壮大な墳墓に葬られました。この違いは、両文明の社会構造と死生観の違いを反映しています。

 

宮殿・建物

クレタの宮殿は迷宮のような複雑な設計が特徴です。クノッソスの宮殿では、多数の部屋、階段、廊下が巧妙に配置されており、その壮大さと精巧さで知られています。ミケーネ文明の建物は要塞化されており、防御的な機能を重視した構造が特徴です。

 

陶器類の絵柄

クレタ文明の陶器は、海洋と深いつながりがある島ならではのデザインが施されています。魚やタコ、貝などの海洋生物が主なモチーフで、これはクレタ人が海との関わりを重視していたことを示しています。一方、ミケーネ文明では、兵士や武具など、戦闘に関連したモチーフが中心で、より軍事的な社会を反映しています。

 

このようにクレタ文明はその繁栄期において、独自の文化と社会構造を築き上げ、後のミケーネ文明に大きな影響を与えながらも、その違いを明確にしていたのです。

 

クレタ文明滅亡の原因

 

クレタ文明の突然の終焉については、歴史家や考古学者の間で多くの議論が交わされていますが、その原因は今もなお完全には解明されていません。前16世紀に全盛期を迎え、豊かな文化と高度な社会構造を築いていたクレタ文明ですが、紀元前15世紀半ばに突如としてその繁栄が終わりを告げます。

 

一つの説は、ギリシア本土から南下してきたギリシア人によって滅ぼされたというものです。この侵攻がクレタ文明の政治構造を崩壊させ、文化的連続性を断ち切った可能性が指摘されています。しかし、これだけでクレタ文明が滅んだと断定するには、具体的な証拠がまだ不足しています。

 

もう一つの主要な説は、テラ島(現在のサントリーニ島)の火山が大爆発を起こしたことによる影響です。この大規模な噴火とそれに伴う津波が、クレタ島に甚大な被害をもたらし、文明の衰退を加速させたとされています。実際、この噴火はクレタ文明の重要な港や集落を破壊し、経済的な打撃を与えたと考えられています。

 

特に火山説は考古学的な証拠や地質学的なデータによって部分的に裏付けられていますが、クレタ文明がなぜ突然滅びたのか、その全貌を解き明かすにはさらなる研究が必要です。クレタ文明の滅亡には複数の要因が絡み合っている可能性が高く、その謎解きは今後も続くことでしょう。

 

クレタ文明の年表

時期 概要
前期(紀元前30〜22世紀) クレタ島に青銅器がもたらされる。文明の萌芽期。
中期(紀元前21〜17世紀)
  • 青銅器で様々な利器が作られるようになる。
  • クノッソス、フェイストス、マリアなどで最初の宮殿が作られる。
  • 多彩な壁画・陶器類がつくられるようになる。
  • カマレス土器が生まれる。
  • 線文字Aが発明される。
後期(紀元前16〜15世紀)
  • ミノア文明が全盛を迎える。
  • クノッソス宮殿が建てられる。
  • 15世紀半ばに突如文明が崩壊する。原因不明。

 

以上、クレタ文明(ミノア文明)についての解説でした!

 

ざっくりと振り返れば

 

  • クレタ文明は紀元前2000年から紀元前1450年にかけて栄え、地中海貿易を中心に発展
  • 独自の文化や建築様式、海洋的な陶器デザインが特徴
  • 突然の滅亡の原因として、ギリシア人の侵攻やテラ島の火山噴火説がある

 

・・・という具合にまとめられるでしょう。

 

ようは「クレタ文明は、地中海を中心に栄えた文明で、ミケーネ文明に大きな影響を与えながらも、その終焉には複数の要因が関与している。」という点を抑えておきましょう!以下でクレタ文明に関するQ&Aをまとめていますので、さらに詳しく知りたいという方は参考にしてみてください。