日本とヨーロッパは地理的には非常に遠く、少なくとも中世までの「交流」といえば、大陸を介した間接的なものに過ぎませんでした。しかし近世以降、大航海時代(日本の戦国時代末〜江戸時代初期)が幕を開けると、その先駆者となったポルトガルとの交流が始まり、日本にもヨーロッパの文化が次々入ってくるようになりました。
1541年〜1543年日本にポルトがル人が渡来し、いわゆる「南蛮貿易」が始まりました。「ヨーロッパ」という日本語読みは、同時期伝わったポルトガル語のEuropa(エウロパ)が由来になっており、これがやがてエウロッパ→ヨーロッパと発音されるようになりました。明治時代になると、ヨーロッパの制度・習慣、武器・兵器などの導入が本格化し、「文明開化」が始まったのです。
『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロ
日本の存在を初めてヨーロッパに知らしめたのは、マルコポーロ(1254年頃〜1324年)のアジア旅行記『東方見聞録』だと思われます。この東方見聞録によれば日本(ジパング)は、「莫大な黄金を抱え、宮殿や民家は黄金で出来ている」ことになっていますが、これはポーロが中国人から聞いた、奥州の金産地や中尊寺金色堂のことを、日本のことだと勘違いしたものだと考えられています。
日本はかつて、ヨーロッパの人々から「ジパング」と呼ばれていましたが、これは日本が「中国の東」=「太陽が昇る方向」であることから「ジーベン」と呼ばれていたことに由来しています。「ジーベン」が変化して「jih(日)+pun(本)」→「Zipangu(ジパング)」と呼ばれるようになり、さらに語感が変化し、イタリア語では「ジャポネ」、英語では「ジャパン」と呼ばれるようになりました。
またニッポン、ニホンという日本語読みも、中国との相対的位置関係に由来する呼び名で、のちに聖徳太子が「日出処」という新しい概念を上書きし、「日本」という名称が使用されるようになったのです。
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