十字軍の時代は、西ヨーロッパにとって、経済・文化両面における真の革新の発端となった。これに対し、東方は、この聖戦によって、何世紀にもわたる長い退廃と反啓蒙主義時代に突入してしまった。
ジョルジュ・タート著『十字軍〜ヨーロッパとイスラム・対立の原点〜』より
十字軍とは、11世紀から13世紀(広義には 11〜15世紀中頃)にかけ複数回にわたり組織された、西ヨーロッパ勢力(キリスト教カトリック勢力)の東方軍事遠征軍のことです。イスラム教徒に奪われた聖地・エルサレム奪還を名目に、ローマ教皇の呼びかけで8回以上にわたり結成、東欧および中近東へ向けて派兵されました。
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「十字軍」という名称は、第一回十字軍の遠征から100年以上たった後に使われるようになり、参加者が衣服に十字架の印をつけていたことに由来しています。
第1回十字軍(1096〜99年)は、セルジューク朝トルコの侵攻に苦しんでいた東ローマ皇帝からの救援要請をきっかけに始まりました。ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、フランスの諸侯・騎士を主戦力とした40万の軍団が結成され、十字架の旗印を掲げて東方へと旅立ったのです。
そして1099年エルサレムに到着した十字軍は、強襲によりエルサレムを奪還することに成功。エルサレム王国を初めとする「十字軍国家」と呼ばれる国家群を建設するにいたりました。テンプル騎士団、ヨハネ騎士団も同時期創設されています。
しかし十字軍遠征の本来の目的が達成されたのは、第一回が最初で最後になりました。その後まもなくトルコが勢いを取り戻し、第2回十字軍(1147〜49)を組織するも、参加した神聖ローマ皇帝コンラート3世、フランス王ルイ7世ともに返り討ちにあい敗走しています。
第4回(1202〜04)では、本来の目的であるはずの聖地奪還が脇に置かれ、東ローマ帝国に攻め入ります。ヴェネツィア商人の策謀もあり、宗教的な敵よりも、政治的・経済的な敵を討つことが優先されたのです。
その結果、首都コンスタンチノープルを占領し、ラテン帝国を建国するにいたりますが、占領の際の過剰な破壊・残虐行為は現在にいたるまで批判的に語り継がれています。
第4回遠征以降は信仰的な動機が弱まり、領土的野心や利益追求といった面が強まっていきました。また目的地もエルサレム周辺よりもイスラム最大勢力であるエジプトに向かうことが多くなりました。
本来の目的を見失ったまま第5回(1218〜21年)・第6回(1227〜45年)・第7回(1248〜68年)・第8回(1268〜91年)と遠征は続けられましたが、全て失敗に終わっています。
そして最後となる第8回十字軍の際、首都アッカーが陥落したことでエルサレム王国は崩壊し、「十字軍国家」も完全に消滅しました。
十字軍運動は失敗に終わったものの、十字軍の東方への軍事遠征を通して、東方オリエント世界への道が開かれ、ヨーロッパの商工業を活気づけました。すでに盛んだった東地中海交易がさらに活況となり、とりわけジェノヴァやヴェネツィアといったイタリア港湾都市が経済的な恩恵を受けました。
東方貿易にともなう東西交流の活性化により、オリエント世界の先進科学が西ヨーロッパ世界にもたらされ、その後のヨーロッパの科学的発展の大きな原動力となりました。
度重なる十字軍の失敗は、遠征を呼びかけた教皇権の失墜・封建貴族の没落をまねき、相対的に王権が拡大したことで、のちの主権国家体制(絶対王政)を準備しました。
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