パッツィ家(伊:Pazzi)は、11世紀から15世紀までフィレンツェを拠点としたイタリアの名家です。金融業と貿易により富を築いたラニエリ・デ・パッツィが、その財力を背景に繁栄の基礎を築き、フィレンツェの有力貴族にのし上がっていきました。同じフィレンツェの名門貴族メディチ家とはライバル関係にあり、メディチ家転覆を謀った「パッツィ家の陰謀」を起こしたことで知られます。
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メディチ家はロレンツォ=メディチ(1449年‐1492年)の代に黄金期を迎え、その影響力はフィレンツェを飛び出て、北イタリアの教皇領ロマーニャ地方にまで及ぶようになりました。教皇シクストゥス4世(在位:1471 - 1484年)はこれを苦々しく思い、メディチ家の事業を妨害し、ライバルのパッツィ家を優遇しました。当然メディチ家も黙っておらず、教皇の大司教任命を妨害、パッツィ家を公職から追放するなどし、両者は激しく対立しました。
1477年、パッツィ家のフランチェスコと教皇シクストゥス4世は共謀し、ロレンツォ排除の計画を練るようになります。そして1478年4月26日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でのミサ中に、メディチ家の兄弟2人(ロレンツォとジュリアーノ)の暗殺計画が実行されたのです。しかし弟ジュリアーノは殺害されたものの、ロレンツォは首に傷を負っただけで逃げのび、暗殺は失敗に終わりました。
最盛期のメディチ家は市民に広く支持されていたので、首謀者のフランチェスコはもちろん、パッツィ家を始めとした暗殺計画の共謀者100人近くが糾弾・捕縛され、ただちに処刑されました。冤罪もかなり含まれていたといいます。
この事件により教皇庁との対立はいっそう激しいものとなり、教皇はメディチ家が大量虐殺を起こしたとしてフィレンツェを破門。ナポリ王国と同盟し、フィレンツェに宣戦布告しパッツィ戦争を引き起こしました。
しかしロレンツォは冷静でした。ナポリに自ら足を運び、ナポリ王と直接交渉を行なうなど和平に努め、この抗争を乗り切り、1484年に火種ともいえるシクストゥスが死去したことで事態は収束に向かったのです。
陰謀によりパッツィ家はフィレンツェからの追放と財産の没収という制裁を受けたものの、ロレンツォの死後、事件と無関係だった者はフィレンツェに戻り、ある程度財産を取り戻すことが出来ました。
そして今度はメディチ家と協調する道を選び、多くの聖職者や政治家といった有能な末裔を輩出することに成功しました。カルメル会の修道女で、後にカトリック教会の聖人となるメアリー・マッダレーナ・パッツィ(1566年-1607年)もその1人です。
フランス系
カペー家/ブルゴーニュ家/ヴァロワ家/ブルボン家/ボナパルト家/オルレアン家/ノルマンディー家/フランドル家
ドイツ系
ハプスブルク家/リウドルフィング家/ズップリンブルク家/ヴィッテルスバッハ家/ロレーヌ家/ハプスブルク=ロートリンゲン家
イタリア系
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