
イギリス革命とは、17世紀イギリスで起こった二つの革命(清教徒革命と名誉革命)の総称です。イギリスはこの革命によって、絶対王政を打倒し、立憲君主制を確立。他のヨーロッパの国々より一足早く内政を落ち着かせ、世界最速で近代市民社会を築き上げました。そして経済力・軍事力を背景に瞬く間に勢力を広げ、世界の覇権を握る「大英帝国」を築き上げたのです。
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清教徒革命を成功に導いたクロムウェル
清教徒革命は、1642年、清教徒(ピューリタン)が中心勢力となって起こされた市民革命で、チャールズ一世の失政に対する国民の不満が背景にありました。王党派と議会派の武力衝突に発展し、クロムウェルの鉄騎隊の活躍もあり議会派が勝利。チャールズ一世の処刑、王政の廃止とともにイギリス史上初の共和政が開始されました。この革命は、イングランド及びその領域における政治的パワーバランスに深刻な変化をもたらし、後のイギリス政治体系に影響を与え続けました。
しかしその後実権を握ったクロムウェルが護国卿として独裁政治を行ったため、彼の死後チャールズ2世が即位し王政に戻りました。クロムウェルの独裁政治は国内外からの反発を招き、その死後の政治的空白を背景に、王政復古への動きが強まりました。チャールズ2世の即位は、多くの変革を経た後の安定を求める国民の願望を反映したものであった。
イングランドへ向かうオランニェ公ウィレムの船団。ジェームズ2世は一戦も交えることもなく亡命したため、無血による体制移行が完了した。
名誉革命は、1688年から89年にかけて起こった革命で、王政復古後,議会無視の専制政治を行ったジェームズ2世を追放し、オラニエ公ウィレムとその妃メアリ2世を王位につけるまでの一連の流れを指します。この革命は、清教徒革命と異なり、流血を伴わずに権力の移行が行われたため、“名誉”革命と名付けられました。オランニェ公ウィレムのイングランド到着とジェームズ2世の迅速な退位は、イングランド史における政治的安定と議会主導の政治体制への移行を象徴しています。
その後ウィレム夫妻が共同統治者として即位し、89年2月即位の条件として提出された「権利の宣言」(=議会の承認がなければ法律の制定も課税もできないとする誓約)も承認します。同年12月議会はこれを「権利の章典」として制定し、議会を中心とする立憲君主政が確立。これにより、17世紀における議会と国王の対立に終止符が打たれ、イギリスは議会の権限が強化された政治体制に移行しました。この変化はヨーロッパ全体における立憲主義の波を加速させる重要な契機となり、後の民主主義の発展に寄与しました。
イギリス革命は、17世紀に起きた清教徒革命と名誉革命の総称で、絶対王政を打倒し、立憲君主制を確立した重要な転換点だったのです。清教徒革命ではチャールズ1世が処刑され共和政が始まりましたが、クロムウェルの独裁後に王政復古が実現。一方、名誉革命では流血を伴わずにジェームズ2世が追放され、権利の章典の制定により議会中心の立憲君主制が成立。これによりイギリスは他国に先駆けて近代市民社会を構築したのです。
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