
五月革命(五月危機)とは、1968年5月にフランスで起こった反体制運動です。パリの学生運動が発端となり、フランス全土のゼネストに発展するなど、この革命によりフランスは一時深刻な経済麻痺に陥りました。第五共和制成立以来、盤石だったドゴール体制に大きな打撃を与え、翌年の退陣に繋がった歴史的です。
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1960年代後半に起こったベトナム反戦運動に共鳴し、ヨーロッパでは学生運動が頻繁に起こっていました。フランスでは1968年5月、パリ大学の学生が大学制度の改革を求める運動を起こすも、大学側がこれを拒否したことで、大規模な抗議運動に発展。五月革命の火蓋が切られたのです。校舎を占拠した学生を警察が実力で排除したことで、運動は加熱してしまい、パリ市内で警察と学生が衝突する事態にまで発展しました。
学生運動から起こった五月革命は、大規模なデモの発生とそれを鎮圧しようとする警察により、まるで市街戦の様相を呈していました。政府、警察の強硬措置が地方大学の学生の怒りも買い、運動は全国に波及。やがて労働運動にも結びつき、全国でゼネストが起こったことで、フランス社会は麻痺状態に陥ったのです。
ドゴールは内乱にも発展しかねないこの社会危機を受け、急ぎ対策を協議。賃金の引き上げ、社会保障、労働条件の改善などを約束したグルネル協定を結び、議会解散・総選挙実施を宣言することで、なんとか騒動を収めました。しかしドゴール体制はこの運動の影響により支持を失い、翌年4月の国民投票で敗北。11年続いたドゴール政権が崩壊することとなったのです。
五月革命でドゴールの政権基盤は大きく揺らぎ、翌年には退陣に追い込まれた。
1968年5月にフランスで起こった五月革命(Mai 68)は、学生運動、労働者ストライキ、文化的革新が混ざり合った一大社会現象でした。政治的な改革だけでなく、社会や文化の在り方そのものを問う運動として、フランス国内だけでなく世界的な影響を与えました。この革命には、政治的指導者、思想家、アーティスト、そして学生運動のリーダーなど、多岐にわたる人物が関与していました。以下はその代表的な人物たちです。
当時のフランス大統領であったシャルル・ドゴールは、第二次世界大戦中のレジスタンスの指導者として名を馳せた人物ですが、1968年には伝統的な保守派政治家としてフランス第五共和制を率いていました。五月革命の際、ドゴール政権は労働者や学生の抗議活動に直面し、混乱の中で一時的に国を離れる事態にまで追い込まれます。しかし、彼はその後、政治的手腕を発揮して危機を収束させ、6月の総選挙で支持を取り戻しました。
ジョルジュ・ポンピドーは、ドゴールの右腕として動き、混乱の収拾に尽力したフランス首相です。彼は五月革命が広がる中で、政府と抗議者の間の対話を試み、特に労働者の要求に応じた改革案を打ち出しました。ポンピドーの穏健かつ実務的なアプローチは、ドゴール政権が革命の混乱を乗り切るのに重要な役割を果たしました。その後、彼はドゴールの後継者としてフランス大統領に就任します。
「赤毛のダニー」の愛称で知られるダニエル・コーン=ベンディットは、五月革命の学生運動を象徴する人物です。パリ・ナンテール大学の学生指導者として、自由な学問や社会改革を求める運動を主導しました。彼は政府から国外退去命令を受けたものの、そのカリスマ的なリーダーシップとメディアでの発言により、運動をさらに広げました。コーン=ベンディットはその後、ヨーロッパ緑の党の政治家としても活動しました。
ジャン=ポール・サルトルは、実存主義哲学者であり作家として知られる人物で、五月革命において学生や知識人の精神的支柱となりました。彼は運動に直接参加し、抗議者たちと連帯する姿勢を示しました。ドゴール政権はサルトルを逮捕しない方針を示し、「フランスはヴォルテールを逮捕しない」と述べたと伝えられています。このエピソードは、サルトルの知的影響力と象徴的存在感を示しています。
ジャン=リュック・ゴダールはヌーヴェルヴァーグの代表的映画監督で、五月革命を文化的に支えた一人です。彼の作品は、既存の映画形式への挑戦だけでなく、社会の不平等や体制批判をテーマにしたものが多く、革命の思想的基盤の一端を担っていました。ゴダールは直接的な政治活動にも関与し、映画業界の労働者と共にストライキを支持しました。
ルイ・アルチュセールは、構造主義マルクス主義の哲学者であり、学生運動や労働者運動に理論的な裏付けを与えました。彼の著作は、社会変革を求める若者たちの間で影響力を持ち、彼の「イデオロギー装置」論などの思想は、革命後の知識人の議論に大きな影響を与えました。
ギー・ドゥボールは、フランスの映像作家であり、思想家としても活躍した人物です。彼は著書『スペクタクルの社会』を通じて消費社会の批判を展開し、五月革命の思想的背景を形成しました。ドゥボールの考えは、現代社会が物質主義と映像に支配されていることを指摘し、それを変革する必要性を訴えました。
五月革命は、政治的・経済的変革だけでなく、文化や思想の分野における変化を促進しました。上記の指導者や知識人たちは、それぞれ異なる立場や分野から革命に関与し、1968年という年を歴史に刻む原動力となったのです。
五月革命(五月危機)により70年代以降、以下のような社会変化が見受けられました。
なかでもセックス革命、いわゆる女性解放運動(MLF) がさかんになったのは、特に大きな(価値ある)変化の1つとして語られ、2010年代後半から広がりを見せたMe too運動の原動力にもなっています。
ただし五月革命自体は女性の解放運動を志向していたわけではありません。フランスというのは伝統的にカトリックを国教とする国なので、厳格な教義のもと、当時のフランスの性事情は他の欧州諸国と比べてもも抑圧的でした。そのため革命運動の中でもその中心はあくまで男性で、女性はお茶くみやタイプなど助手的な役割しか与えられなかったたといいます。こうした苦い経験がきっかけとなり、女性の運動のためのグループが必要とされ、積極的に活動が行なわれるようになったのです。
さらに本格化したのは、五月革命の翌年のある出来事です。エトワール凱旋門の無名戦士の墓に、「無名戦士の妻に捧げる」と添えられた花束が、複数の女性団体により捧げられました。無名戦士の妻の名誉を思ったこの象徴的行為が、メディアでセンセーショナルに奉じられ、女性解放運動(MLF)が一気に広まっていったのです。こうして家父長制からの解放、性役割からの解放、人工妊娠中絶の合法化、雇用の平等などなど旧態依然とした枠組みから脱しようとする主張が活発になり、現在にも続く様々なフェミニストグループが誕生することとなります。
五月革命期の有名女性運動家
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