両シチリア王国(伊:Regno delle Due Sicilie)は、19世紀初頭、シチリア王国とナポリ王国の統合により成立した、ブルボン家支配の王国です。19世紀後半に始まるイタリア統一戦争の中、千人隊のガリバルディに征服され滅亡したため短命に終わりました。
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両シチリア王国の首都はナポリでした。ナポリは南イタリアの都市であり、地中海に面しています。当時の重要な商業中心地で、芸術と学問の中心でもあり、国全体の政策や文化が形成される上で重要な役割を果たしました。
両シチリア王国は、統一されたイタリアの一部となるまで、南イタリアおよびシチリア島を統治しました。この地域は農業が主であり、特にシチリア島ではオリーブやシトラス類の栽培が盛んでした。また、海洋資源も豊富で、漁業も重要な産業でした。
国家としての両シチリア王国は、中央集権的な統治体制を取り、教育や法律、行政制度において近代的な要素を取り入れていました。しかし、国民の間では地域のアイデンティティが強く、ローカルな言語や習慣が根強く残っていました。また、社会的不平等や貧困問題も深刻で、これが後のイタリア統一運動に影響を与える一因となりました。
両シチリア王国の統治期間は約半世紀に満たないものの、その遺産は今日のイタリア、特に南部地域において生き続けています。ナポリをはじめとする都市には、両シチリア王国時代の建築物や文化が残されています。また、当時の言語や習慣、地元の伝統料理なども現代に受け継がれています。
ナポレオン戦争終結後、戦後の国際秩序を決定するウィーン会議で、「シチリアの晩鐘」以来分裂状態にあったシチリア王国と、ナポリ王国を統合することが決定し、1816年、ナポリを首都とする両シチリア王国が成立しました。ナポリ王とシチリア王を兼ねるという「両シチリア王(Rex Utriusque Siciliae)」の称号は、中世にはすでにありましたが(15世紀にアラゴン王アルフォンソ5世が使用)、正式な国号となったのはこれが初めてです。
19世紀中期、サルデーニャ王国主導で、イタリア統一運動(リソルジメント)が勃興し、イタリア諸都市が次々サルデーニャ王国に併合されていきました。両シチリア王国も、1860年にはガリバルディ率いるイタリア連合軍(赤シャツ千人隊)に占領され滅亡。翌1861年に成立したイタリア王国に併合されていきました。
結論として、両シチリア王国は、1816年の成立から1861年の滅亡までの短い期間ながらも、南イタリアとシチリア島の歴史に大きな影響を与えました。その痕跡は今もなお、この地域の文化や風景に見ることができます。それはまた、イタリア全体の歴史の一部として、国家としてのアイデンティティを形成する重要な要素となっています。
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