ロシア帝国は1721年から1917年までに存在した、現ロシア連邦の前身と位置付けられている国家です。首都はサンクトペテルブルグに置かれていました。
西欧化改革により急速な成長を遂げ、国際社会から「帝国」として承認されたことで成立。最盛期にはヨーロッパ五大国の一角として東〜北欧に覇権を築くも、1917年、不況と世界大戦に端を発したロシア革命を受け崩壊し、その版図はソビエト連邦が引き継がれました。
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皇帝位は代々ロマノフ家が世襲し、東ローマ帝国(第二のローマ)の継承者「第三のローマ」を自称していました。
帝国社会は、皇帝家を頂点とし、貴族/聖職者/名誉市民/商人・町人・職人/カザーク/農民でなる身分制を基礎とします。しかし19世紀になると、どの身分にも属さない「ラズノチンツィ(雑階級人)」という階級が出現。身分別の裁判所が廃止されたり、国民皆兵制度の導入などにより、身分差別は解消へ向かっていきました。
15世紀後半、モスクワ大公国がロシア一体を統一し、キプチャク・ハン国を破ることで、250年にもおよぶ「タールのくびき」に終止符を打つことに成功しました。独立後も領土拡大を続け、イヴァン雷帝が大ロシアを統一(1547年)し、皇帝(ツァーリ)を自称するようになります(ロシア・ツァーリ国の成立)。
ロシア一帯を統一し、現ロシアの原形を作ったイヴァン雷帝
帝国は、17世紀中頃から西欧の官僚制度を導入するようになります。さらにピョートル1世(在位:1682〜1725年)が、西欧をモデルに商工業の発展と軍備増強、教育などに熱心に取り組み国力を強化。そして21年にもおよぶ北方戦争(1700〜1721年)でバルト海の盟主スウェーデンを破り、バルト海の覇権を確立しました。これにより名実ともに認められる大国となり、国号を「ロシア帝国」に改めたのです。
首都の移転
ピョートルはバルト海岸沿いに港湾都市サンクトペテルブルクを建設し、首都を伝統都市モスクワからこの地に移しています。そしてこの地を西欧文化流入の玄関口にしたのです。そのためサンクトペテルブルクには、現在でも西ヨーロッパに習った建築様式が豊富にあります。
ロシア帝国は、18世紀初頭のナポレオン戦争で、モスクワに攻め込んできたナポレオン軍を敗走させ、対仏大同盟軍勝利の転機を作っています(1812年ロシア戦役)。ロシアはこの功績により、イギリス・フランス・オーストリアに並ぶ列強国の一角としての地位を手に入れ、ヨーロッパ政治に深く食い込むようになるのです。
南下政策を推し進めたエカチェリーナ二世
そして帝国はさらなる発展には、海洋交易拡大とその為の「不凍港」獲得が不可欠と考えていました。啓蒙専制君主エカチェリーナ2世の代になって、その為の「南下政策」と呼ばれる政策が本格化。19世紀にはオスマン帝国との抗争の末、クリミア半島を併合し、念願の不凍港・黒海沿岸の利権を獲得しています。
その拡大を危惧する西欧列強は、徐々にロシアの南下政策に介入するようになります。例えば、ロシアはエジプト・トルコ戦争で、オスマン帝国を支援する見返りに黒海から地中海へ抜ける海峡の利権を得る密約を交わしているのですが、これがイギリスの介入により白紙にされています。
またクリミア戦争(1853〜56年)では、イギリス・フランスの支援を受けたオスマン帝国に敗れ、黒海の覇権を喪失しています。こうしてロシアの南下政策は、西欧列強との対立を深める結果となり、とりわけバルカン半島を舞台にした抗争は、のちに第一次世界大戦を引き起こす大きな要因となるのです。
列強との覇権争いは財政を圧迫し、帝国政府に対する国民の不満は年々高まっていきました。これを受け20世紀初頭には国家基本法(憲法)を作成したり、二院制議会による立憲君主制に移行するなど、ある程度譲歩を見せますが、第一次世界大戦が始まると、戦争の長期化による被害増大や経済不況が国民の不満を限界に押し上げ、ロシア革命を引き起こしてしまいます。その結果ロマノフ朝が打倒され、ロシア帝国はその歴史に幕を閉じることになったのです。
ロシア帝政を崩壊させた二月革命のデモ
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