エデッサの戦い

エデッサの戦い

戦いの結果捕虜となった皇帝ウァレリアヌス

 

エデッサの戦いは、260年、現在のトルコ南東部エデッサで、ローマ帝国軍とササン朝ペルシア軍が衝突した戦争です。ローマ帝国各地で軍閥が割拠した軍人皇帝時代(235~285年)に起こった戦争の1つで、結果はローマ帝国軍の敗北に終わっています。以下でそんなエデッサの戦いの原因・結果・影響について、さらに詳しくみていきましょう。

 

 

戦いの原因

エデッサの戦いが起きた背景には、ローマ帝国とササン朝ペルシアの長期にわたる対立があります。ササン朝は226年にアルダシール1世がパルティアを倒して建国した後、急速に力をつけ、特にローマ領のメソポタミア地域を巡る覇権争いが激化していました。これに加え、ササン朝の君主シャープール1世(在位:240~270年頃)は、東方での領土拡大とローマへの対抗を掲げており、その攻勢は一層強まっていました。

 

一方、ローマ帝国は235年以降、軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入し、内戦や外敵の侵入に悩まされていました。多くの皇帝が短期間で入れ替わる中、東方の防衛体制も不安定で、ササン朝の攻撃を阻止するのは容易ではありませんでした。このような状況下で、ローマ皇帝ウァレリアヌス(在位:253~260年)は東方戦線の危機を打開するため、親征を決断します。

 

ウァレリアヌスは大規模な軍を率いてエデッサ近郊に進軍しましたが、疫病の流行や補給の問題により、ローマ軍は大きく弱体化していました。この状況を見たシャープール1世は、エデッサ近郊でローマ軍を包囲し、決戦に持ち込むことを選んだのです。 こうして、ローマ帝国の内的混乱とササン朝の侵攻政策が重なり、エデッサの戦いが勃発したのです。

 

戦いの結果

3世紀に入り、ペルシア軍はローマ帝国領への侵攻を繰り返すようになっており、253年バルバリッソスの戦いではローマ軍を全滅に追いやった上でローマ帝国領を占領しています。これを受け260年、ローマ皇帝ウァレリアヌスは奪われた領土を奪還すべく、軍団兵約7万を率いて、ペルシア遠征を断行。しかし結果は惨敗と終わり、引き連れた7万の兵士のほとんどが戦死もしくは捕虜となってしまいました。

 

指揮官であるウァレリアヌスもその後どのような運命をたどったのか記録は残っておらず、皮剥の刑で処刑されたとも、丁重に扱われ生涯を終えたともいわれています。

 

戦いの影響

エデッサの戦いの敗北は、ローマ帝国にとって甚大な影響を与えました。まず、皇帝ウァレリアヌスが敵国に捕らえられるという前代未聞の事態は、帝国の威信を大きく損ねました。皇帝が戦場で捕虜となり、その後の消息が不明であることは、帝国内の混乱と士気の低下を加速させる結果となりました。この出来事は、ローマ帝国の軍人皇帝時代における不安定さを象徴しています。

 

また、ササン朝ペルシアの勝利は、東方におけるローマ帝国の影響力を一時的に弱めました。この戦いでローマ軍が壊滅したことで、ササン朝はメソポタミアやシリアの一部を含む広大な領域を掌握し、東方での覇権を強化。加えて、ササン朝の勝利は周辺諸国にも影響を及ぼし、ローマの弱体化を利用した他の蛮族や反乱勢力が帝国領土内外で台頭するきっかけを生むこととなったのです。

 

一方で、この敗北はローマ帝国にとって軍事や行政の改革を推進する契機ともなりました。戦争後、ローマは東方の防衛体制を再編し、ディオクレティアヌス(在位:284~305年)の時代にかけて、軍の再建や国境警備の強化が進められました。このような対応は、後のローマ帝国再生の礎となりました。 エデッサの戦いはローマ帝国の脆弱さを露呈しつつも、長期的にはその立て直しの契機ともなった重要な転換点だったのです。