
第一次エチオピア戦争のイタリア敗北を決定づけたアドワの戦い
エチオピア戦争は、イタリアが、豊かな資源を持つエチオピア獲得のために開始した侵略戦争です。第一次は1889〜96年にかけて、第二次は1935〜41年に書けて行なわれ、前者は敗れましたが、後者では勝利し、エチオピアの併合に成功しています。ただし最終的には第二次大戦中、連合軍の反撃にあい奪回されました。
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1894年、エチオピアのウチアリ条約破棄を口実とした、イタリアによる軍事侵攻に端を発します。建国間もないイタリアがヨーロッパでの国際的地位を確立する目的がありましたが、イタリア軍は近代化の遅れた脆弱な装備しか持っていなかったので、あえなく返り討ちにされてしまいます。アジスアベバ平和条約で講和。
ファシスト政権時代の1935年、イタリア領ソマリランドとエチオピアの国境紛争を口実に再度エチオピアに侵攻。前回とはうって代わりイタリア軍の兵器は近代化を遂げており、終始エチオピア軍を圧倒、36年には首都アディスアベバを占領し、エチオピアを併合してしまいました。
エチオピア戦争(1935〜1936年)は、イタリアのムッソリーニ政権が進めた侵略政策の一環として行われました。この戦争の影響は、イタリア国内外の政治情勢や国際関係に大きな影響を及ぼしました。 ヨーロッパ列強であるイギリスやフランスは、イタリアの侵略行為に警戒を示していましたが、同時期にドイツが再軍備を宣言しており、注目はむしろドイツの動向に集中していました。
国際連盟はイタリアの侵略に対して経済制裁を課しましたが、その内容は石油の禁輸を含まないなど極めて限定的でした。この生ぬるい制裁措置はイタリアへの抑止力にならず、逆にファシスト政権を勢いづかせる結果となりました。また、この対応の失敗は国際連盟の威信を大きく損ね、集団安全保障の機能不全を露呈しました。
エチオピア戦争の勝利により、イタリアは一時的に国際的な地位を高めたように見えましたが、この戦争を契機にファシスト勢力は増長し、侵略的な政策をさらに推し進めることになります。特に、イタリアはナチス・ドイツと急速に接近し、1939年には独伊同盟(鋼鉄協約)を結成。これは、後の第二次世界大戦の勃発を準備する一因となりました。
エチオピアはイタリアの支配下に置かれることになりましたが、占領に対する抵抗運動が続き、完全な安定支配には至りませんでした。さらに、この戦争はアフリカ全域の植民地支配や独立運動にも間接的な影響を与えました。
エチオピア戦争は、国際秩序の不安定化を加速させ、世界的な対立構造を深める結果となりました。この戦争を通じて、国際社会の集団安全保障の弱体化と、ファシズムの台頭という重大な歴史的転換点が浮き彫りになったのです。
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