
モンゴルへの服従を拒むリャザン公
ルーシ侵攻は、1223年および1236〜1240年にかけて行われた、モンゴル帝国によるルーシ諸国(現在のウクライナ、ロシア、ベラルーシ)への征服戦争を指します。この侵攻は、モンゴル帝国の西方拡大政策の一環として行われ、東ヨーロッパの歴史や文化に深い影響を与えました。
1223年のカルカ河畔の戦いは、ルーシ侵攻の始まりを象徴する出来事でした。モンゴル軍は、ルーシ諸侯とクマン人(遊牧民)連合軍を短期間で壊滅させました。この戦いはモンゴル軍の圧倒的な機動力や戦術の巧みさを示し、ルーシ諸国にとって初めてモンゴルの脅威を直接体感する契機となりました。しかし、この段階ではモンゴル軍は征服を目的とせず、勢力圏拡大のための偵察的な性格を持っていました。
1236年、モンゴル帝国のチンギス・ハンの孫であるバトゥが本格的な西方遠征を開始しました。この「征西軍」は高度な組織力と戦略でルーシ諸国を攻撃し、連携を欠いていた諸公国は次々に敗北しました。当時、キエフ大公国は内部分裂が深刻であり、他の公国との連携も難しく、モンゴル軍の侵攻を食い止める術を持ちませんでした。1240年には、首都キエフが激しい戦闘の末に陥落しました。キエフの陥落は、ルーシ諸国がモンゴルの支配下に入る決定的な転機となりました。
以降、ルーシ諸国はキプチャク・ハーン国(ジョチ・ウルス)の支配下に入り、いわゆる「タタールのくびき」と呼ばれる250年にわたるモンゴル支配が始まります。この時期、モンゴルは直接統治ではなく、各地の公国を間接的に支配する形をとり、貢納や軍事支援を強要しました。この支配体制は、ルーシの経済や文化、政治に多大な影響を及ぼしました。例えば、モンゴルの税徴収制度や行政システムが導入され、後のロシア国家形成に影響を与えたと言われています。
さらに、このモンゴル支配期において、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の文化的・言語的な違いが徐々に明確化しました。この分化は、地理的な要因やモンゴル支配下での地方分権的な体制が影響していると考えられます。一方で、この時期に多くの都市が荒廃し、経済活動が停滞したことも記録されています。
モンゴル支配の末期、ルーシ諸国の中で最も力をつけたのがモスクワ公国でした。14世紀から15世紀にかけて、モスクワは周囲の公国を次々と併合し、影響力を拡大しました。そして、1480年、モスクワ大公イヴァン3世が「タタールのくびき」からの独立を果たしました。この出来事は、ロシアの国家形成の重要な一歩となり、後のロシア帝国の基盤を築く礎となりました。
ルーシ侵攻は単なる征服戦争ではなく、東ヨーロッパの民族・文化・政治の枠組みを大きく変える契機となりました。その影響は現代に至るまで東欧史の根幹を成していると言えます。
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