奴隷戦争

奴隷戦争

ヘルマン・フォーゲルによる第三次奴隷戦争(スパルタクスの乱)を描いた『スパルタクスの最期』(1882年)

 

古代ローマでは、奴隷による大規模な反乱が3回発生しました。最も有名なのは、剣闘士スパルタクスによる第三次奴隷戦争ですが、その前にも2度の重大な反乱がありました。これらの奴隷戦争は、ローマの社会構造と奴隷制度の厳しさを浮き彫りにし、後の政治と軍事に深い影響を与えました。以下で、これらの戦争の原因、経過、結果、そしてそれぞれの戦争が後世に与えた影響について詳しく解説していきます。

 

 

第一次奴隷戦争

この反乱は紀元前135年から紀元前132年にかけて発生し、シチリア島でローマの支配に対して奴隷たちが立ち上がったものです。奴隷たちは、ポエニ戦争の結果としてローマ属州となったシチリアで過酷な扱いを受けていました。食料や衣服が不足し、極端な労働条件に耐えかねた奴隷たちが反乱を起こしました。反乱を指揮したのは、シリア出身で預言者とされたエウヌスと、キリキア出身で軍事に長けたクレオンで、彼らは最終的に20万にも及ぶ奴隷軍を率いました。しかし、この反乱はローマによって鎮圧されましたが、彼らが示した勇敢さは後の奴隷反乱の触発となりました。

 

戦争の背景

第一次奴隷戦争は、ポエニ戦争の結果ローマ属州となったシチリア・エンナの奴隷による反乱をきっかけに勃発しました。ローマ人が奴隷たちに十分な食料も服も与えず、過酷な生活を強いたことがこれを誘発してしまったのです。シリア出身で預言者とされたエウヌスと、キリキア出身で軍事に長けたクレオンが20万にもおよぶ反乱奴隷軍を指揮。結果的には鎮圧されたものので、彼らの指揮で、兵力ではるかに勝るローマ軍相手に善戦したことは、のちに起こる第二次奴隷戦争の原動力にもなります。

 

戦争の影響

第一次奴隷戦争は、シチリア島における奴隷制度の問題点を浮き彫りにしました。この戦争を通じて、ローマに対する奴隷たちの不満がどれほど深刻であったかが明らかになり、特にシチリア島の農業経済における奴隷の重要性が強調されました。戦争が終結した後、ローマはシチリア島の奴隷管理を強化し、反乱の再発防止策として厳しい監視体制を敷きました。しかし、これは根本的な解決にはならず、奴隷たちの待遇改善にはほとんど繋がりませんでした。これが後の第二次奴隷戦争の火種となりました。

 

第二次奴隷戦争

第二次奴隷戦争は、紀元前104年から紀元前100年にかけて、共和政ローマで起こった奴隷による大規模な反乱です。

 

戦争の背景

当時のローマは、スカンディナヴィア半島から南下するキンブリ族の侵入を阻止すべく、一定の兵力を必要としていました(キンブリ・テウトニ戦争)が、同盟国は兵力供給の要請に応じられませんでした。代わりに一部の従順な奴隷を利用することに決めますが、そのために解放したシチリアの奴隷800名がローマに対して反乱を起こしたのです。この第二次奴隷反乱の首謀者は、第一次奴隷戦争で指揮を執ったエウヌスの後継者を名乗るサルウィウスであり、彼は数万の軍勢を築き上げ、ローマに対し善戦しますが、最終的には鎮圧されていきました。

 

戦争の影響

第二次奴隷戦争は、ローマのシチリア島における支配体制に深刻な疑問を投げかけました。サルウィウスを中心とした奴隷の反乱軍は、数年間にわたりローマ軍に対して効果的な抵抗を展開し、その間に多くのローマ市民や兵士が犠牲になりました。この戦争の結果、ローマは奴隷の管理と監督をさらに強化することになり、一部の改善策が導入されたものの、奴隷制度そのものの問題は解決されませんでした。また、この戦争はローマの政治における緊張を高め、ポプラレス(民衆派)とオプティマテス(閥族派)の間の対立を激化させる要因となりました。これが、後の内戦の一因となる政治的な不安定さをローマにもたらしたのです。

 

第三次奴隷戦争

第三次奴隷戦争とは、紀元前73年から紀元前71年に共和政ローマで起こった大規模な奴隷反乱です。ローマで3度起こった奴隷戦争の内、最後かつ最も大規模な戦いとなり、指導者のスパルタクスの名にちなみ、スパルタクスの乱とも呼ばれています。

 

戦争の背景

カプアの剣闘士養成所から70人の剣闘士が脱走。逃走中に次々と奴隷を解放しながら勢力を拡大し、最終的には12万の軍勢となりイタリア各地を襲撃するようになりました。これまでの奴隷戦争と違い、戦闘能力に長ける剣闘士奴隷が中核であり、ローマ軍は養成所で厳しく鍛え上げられた剣闘士に大変な苦戦を強いられました。さらに指導者のスパルタクスが、元々ローマの補助兵であり、ローマ側の出方が先読みされていたともといわれています。

 

戦争の影響

第三次奴隷戦争はローマ社会に多大な影響を及ぼしました。この反乱が示したのは、ローマの奴隷制度のもとでの苛烈な扱いがどれほど多くの人々に不満を抱かせていたか、そしてその不満がどれほど深刻な暴力的反乱につながる可能性があるかです。スパルタクスの乱は、最終的にローマ軍によって鎮圧されたものの、ローマ政府にとって大きな警鐘となりました。特に、ローマは奴隷の扱いを改善することで、将来的な反乱の予防につながるかもしれないとの認識を強めることになりました。

 

この反乱の後、ローマは奴隷の扱いに関して幾分かの改善を行い、特に重労働を強いられる奴隷への待遇改善に注力しました。しかし、根本的な問題解決には至らず、奴隷制度自体は帝国が衰退するまで続くことになります。この戦争はまた、ローマ軍内部の戦術や組織においても改革を促すことになり、長期にわたりローマの軍事戦略に影響を与え続けました。

 

これらの奴隷戦争を通じて、ローマ社会の矛盾が明らかになり、後の改革や社会構造の変化に向けた動きが生まれました。奴隷たちが示した勇気と決断は、歴史における抑圧された集団の抵抗の象徴として、後の世代にも大きな影響を与え続けています。