エトルリア人の特徴と歴史

エトルリア人(ラテン語でエトルスキ)は、紀元前10世紀頃からイタリア半島中部トスカーナ地方を中心に活動していた民族です。ヨーロッパの文化の基礎を作ったのはローマ人ですが、そのローマ人の文化形成の基礎を作ったのがエトルリア人です。王政ローマの七人の王の最後の3人はエトルリア人でした。この民族がどのような歴史と文化をもっていたのか知っておきましょう。

 

 

 

エトルリア人の文化的特徴

エトルリア人は古代ギリシアとオリエントの影響を受けた独自の文化を築いていました。ラセンナと自称し、ローマ人からはエトルスキと呼ばれていました。貴族、自由民、奴隷からなる身分制の社会でした。

 

言語

古代ギリシア文字と同系列の文字を使用し、先印欧語であるエトルリア語を使用していました。先印欧語とはインド・ヨーロッパ語族が広まる前に、先史時代のヨーロッパと南アジアで使われていた古代言語です。エトルリア語は今や死後であり考古学的資料に乏しいので、言語系統は判然としませんが、遺された碑文の研究からティルセニア語族ではないかという仮説が立てられています。

 

宗教

多神教

 

政治

初期は王政でしたが、前5世紀末までに共和制に移行。政務官と元老院いより行政が行なわれていました。

 

 

エトルリア人の歴史

系統

エトルリア人の系統については

 

  • 小アジアのリュディアからイタリアへ渡来した民族(ヘロドトスの東方起源説)
  • イタリア先住民(ハリカルナッソスのディオニュシオスの説)

 

がありますが、はっきりとしたことはわかっていません。

 

繁栄と衰退

イタリア半島中部・エトルリア地方の豊富な鉱物や肥沃な耕地、古代ギリシアとの交易で得られる錫などを背景に発展し、前7世紀末頃までに12の都市国家群を建設しました。地中海貿易で繁栄し前6世紀に最盛期を迎え、エトルリア系の王がローマを統治するようになりました。しかし前5世紀以降は衰退が始まり、前3世紀になると勢力を増した共和制ローマの軍門に降ることになりました。

 

影響

エトルリアは都市国家の集合体であり、ローマのように1つのまとまった統一国家にはならなかったことが1つの敗因といえそうです最終的にローマに滅ぼされたとはいえ、ローマより早く文明化したこともあり、エトルリア文化はその後のローマの灌漑技術、建築技術、衣服、政治制度などに大きな影響を与えることになりました。ローマの歴史を語る上でも重要な存在となっています。