ジャガイモ飢饉とは、19世紀のアイルランドでジャガイモの不作にともない発生した深刻な大飢饉のことです。当時のアイルランドは例年にない長雨と冷害による不作に悩まされていた上、追い打ちをかけるようにヨーロッパ全土でジャガイモ疫病菌による病害が大規模に発生し、とりわけジャガイモを重要な食糧源にしていた同国は深刻な被害に見舞われたのです。
|
|
|
|
当時のアイルランドはまだイギリスの植民地国であり、限られた肥沃な土地で栽培される麦は、イギリス人に収奪されている状態でした。そのためアイルランド人は、代わりに痩せた土地でも収穫できるジャガイモに食糧源を頼り切るようになっており、ジャガイモが収穫できなくなることは、当時のアイルランド人にとって死を宣告されたも同然だったのです。
そしてジャガイモ飢饉が起こった結果、アイルランドの人口約800万人のうち、餓死者・病死者100万人を超える惨劇が引き起こされてしまいました。アイルランドは食料輸出禁止措置を検討しましたが、イギリスの貴族や地主たちの妨害もあり実現せず、引き続き重要な食糧源は輸出され続けたのです。
アイルランドにおいて、深刻なジャガイモの凶作とそれにより起こった深刻な飢饉は、以下の要因が重なった結果発生したといえます。
下2つを見てもらえればわかりますが、ジャガイモ飢饉は病原菌繁殖という避けようのない「天災」によるものだけでなく、当時のイギリス政府の無策という「人災」によりさらに深刻化した事件と考えるべきでしょう。
1847年の『The Illustrated London News』に掲載されたアイルランドの飢饉の様子
イギリスには1815年以降、「穀物法」という、地主や農業資本家の利益を守るため、外国の安価な穀物の輸入を防ぐ法律がありました。安い外国産の穀物が流通することで、イギリスの農業経営者が利益をあげられなくなるためです。
しかし1845年ジャガイモ飢饉が発生した時、この法律が弊害になり、食糧を援助しようにも輸出入ができないという問題が発生しました。その結果、もともと食糧不足に対策を立てていなかったことも追い打ちをかけ、大勢の餓死者を生んでしまったのです。
これ以上ない保護貿易の弊害が噴出した上、18世紀からの産業革命の進展で、自由貿易を望む産業資本家や穀物価格の高騰に反発する労働者の声が高まっていたこともあり、1846年穀物法は廃止されました。
ただ穀物法が廃止されても、すでに広く病原菌が拡散している中、アイルランドの飢饉の問題がすぐに解決することはありませんでした。
ジャガイモ飢饉によって、アイルランドでは死者による人口減少に加え、100万人以上が逃れるように島外(アメリカ合衆国・カナダ・オーストラリアなど)に移住していきました。さらにこんな逼迫した社会状況では結婚や出産をする余裕もなくなり、結果的にアイルランド島の総人口は最盛期の5割にまで減ってしまったのです。
人材の流出や社会の停滞によりアイルランド語を話せる人も激減し、民族文化の面でも大きな打撃を与えました。現在アイルランドではアイルランド語は公用語ですが、日常的に使用している人はほとんどいません。これには当然イギリスによる植民地化の影響もありますが、ジャガイモ飢饉の影響も大きいといわれています。
飢饉を悪化させた一因であるイギリス貴族・地主への反発から、イギリスからの分離独立運動が激しくなりました。青年アイルランド党の蜂起が起きたり、普通選挙を要求する活動が盛り上がるようになるのです。独立運動は穀物価格の高騰という形でイギリス人の生活にも直撃し、イギリスは徐々に独立派に妥協せざる得ない状況に追い込まれていきます。
ジャガイモの凶作はヨーロッパ全体で起こったものですが、人口の3分の1がジャガイモに依存していたアイルランドでは、飛びぬけて多くの犠牲者が発生しています。国勢調査で1841年に約800万人だった人口が、ジャガイモ飢饉後の1851年には 660万人となっており、2割以上も減少しています。
飢えや栄養失調による病気、発疹チフスなどで死者が続出しただけでなく(正確な死者数は不明のままです)、深刻な状況から逃れるべく多くのアイルランド人が国外に脱出した影響です
ジャガイモ飢饉により、最終的に人口は最盛期の半分にまで落ち込み、言語を始め、アイルランド文化の衰退を招きました。現在、アイルランド人でもアイルランド語を話せる人が少ないのは、このジャガイモ飢饉の影響が少なからずあるでしょう。
|
|
|
|