第二次世界大戦の終戦直後の余燼が収まるにつれ、1950年にもなるとイデオロギー的、政治的、そして社会経済的に二つに分断された新しいヨーロッパが姿を現わしていた。ヨーロッパ大陸の歴史上まったく異なった時代、前例のない不安の時代の始まりだった。その時代は本質的に、戦争がもっとも重要な遺産として残した分断によって―そして核による滅亡というぞっとするような脅威によって―形づくられていた。
イアン・カーショー著『ヨーロッパ史-分断と統合への試練-』より
冷戦時代とは、アメリカを筆頭とする西側諸国(資本主義勢力)と、ソ連を筆頭とする東側諸国(社会主義勢力)の対決が生み出した国際的緊張のこと、およびその状態が続いた20世紀後半の時代のことです。この時代、対立の境界となったヨーロッパはもちろん、米ソの覇権争いに巻き込まれた世界各国が激しい政変や内乱を経験しました。呼称は読んで字のごとく「冷たい戦争」、つまり「武力衝突のない戦争」という意味です。
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第二次世界大戦終結後、大戦による荒廃と混乱の中、ソビエト連邦という新たな超大国が、東方よりヨーロッパ諸国の取り込みを図っていました。そこでアメリカは共産圏拡大を抑止するため「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」というヨーロッパ諸国に対する軍事経済援助計画を発表。
この「封じ込め政策(Containment Policy)」の結果、ヨーロッパ世界は、ソ連を盟主とする共産主義陣営(東ヨーロッパ諸国)と、アメリカを盟主とする資本主義陣営(西ヨーロッパ諸国)の真っ二つに分断され、東西対立が混迷を極める冷戦時代に突入していくのです。
そして米ソの覇権争いが加熱していく中、西ヨーロッパ諸国が加盟する北大西洋条約機構(NATO)と東ヨーロッパ諸国が加盟するワルシャワ条約機構(WTO)という二つの軍事同盟が対峙し、いつまたヨーロッパを戦火が覆ってもおかしくない状況が続きました。
冷戦時代の象徴
鉄のカーテン
東西冷戦の幕開けで、両陣営の間で人・物・情報の交流が遮断されるようになりました。ウィンストン・チャーチルがこの状態を「ヨーロッパに“鉄のカーテン”が降ろされている」と比喩したため、「鉄のカーテン」は東西冷戦の境界線を表す言葉として使われるようになりました。
ベルリンの壁
1948年ソ連が行った「ベルリン封鎖」は、ヨーロッパの東西分断を決定的なものにし、さらに61年西側への市民流出を防ぐためソ連が建設した「ベルリンの壁」は東西冷戦の象徴的建造物となりました。
建設中のベルリンの壁
近代資本主義経済の確立とともに、一貫して世界をリードしてきたヨーロッパ。しかし冷戦時代に入ると「外の世界(アメリカ・ソ連)にその命運を握られる」という史上初めての事態に直面し、生き残りのために各国争いはやめ協力していく必要が出てきました。そこでようやく戦争に明け暮れた近代史を反省し、不戦の誓いとともに「ヨーロッパ統合」という新境地に舵を切るようになるのです。
その後、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(EAEC)、欧州共同体(EC)などいくつかの経済同盟の結成を経て、20世紀末にはこれらが統合することで現在に続く欧州連合(EU)の設立にこぎつけています。
欧州連合(EU)のシンボル
様々な問題を戦争や侵略によるのではなく、粘り強い歩み寄りや協議によって解決していく・・・そんな今では当たり前のヨーロッパのあり方は、冷戦時代、何度も戦争の危機に直面しながらも、「もうあんな悲劇は起こすまい」と必死に協調の道を模索し続けた各国の努力の賜物なのです。
冷戦時代末期、ソ連支配下の東欧では、「西欧の経済的繁栄」への羨望から「自由」を求める声が日増しに高くなっていきました。ソ連も経済危機で国力が落ちていたため、力を持ってそれを封じるのは難しく、ゴルバチョフ体制(1985年〜)に移行すると東欧への不干渉を明言します。
ベルリンの壁崩壊に沸き立つベルリン市民
すると東欧各国は瞬く間に共産主義政権を打倒し、ほとんど無血で「自由」を手にしていったのです(東欧革命)。冷戦の象徴とされたベルリンの壁も崩壊し、東西ドイツも再統一を達成。これで事実上ヨーロッパの東西分断は解消されました。
89年末には地中海のマルタにて、ゴルバチョフとアメリカのジョージ・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言(マルタ会談)。91年にはソ連も解体されたことで、名実ともに冷戦は終焉を迎えました(ソ連崩壊)。
2000年代に入ると東欧諸国も次々と欧州連合(EU)に加盟していき、ヨーロッパの政治的・経済的統合がいっそう深化していきました。
冷戦とは、第二次世界大戦終結とともに始まった、アメリカを中心とする西側陣営(資本主義陣営)とソ連を中心とする東側陣営(共産主義陣営)が敵対していたことによる、軍事的緊張状態のことです。冷戦(冷たい戦争)という名の通り、大規模な軍事衝突こそ起こりませんでしたが、歴史的に重要な様々な出来事が起こりました。
上述した通り、冷戦は、第二次世界大戦後に始まったアメリカとソ連を中心とする東西両陣営の対立を指します。軍事的な衝突は避けられたものの、世界各地で代理戦争やイデオロギー対立が繰り広げられました。この冷戦の歴史を、いくつかの時期に分けて解説いたします。
冷戦の初期は、アメリカとソ連の対立が最も激化した時期です。1947年、アメリカのトルーマン大統領(1884〜1972)は「トルーマン・ドクトリン」を発表し、共産主義の封じ込め政策を始めました。これにともない、西側諸国はマーシャル・プランで西ヨーロッパを支援し、東側はソ連の影響下に置かれました。さらに1949年には、アメリカがNATO(北大西洋条約機構)を結成し、ソ連も東欧諸国とワルシャワ条約機構を結成するなど、軍事的な対立が顕在化しました。
朝鮮戦争(1950年〜1953年)が勃発し、アジアでも冷戦の緊張が高まりました。ここでは、米ソの直接的な戦闘は避けられましたが、代理戦争が繰り広げられ、東西対立が世界的な広がりを見せた時期でした。
1953年にスターリンが死去すると、米ソ間の対話が進み、冷戦は一時的に「雪解け」の時期に入ります。アメリカではアイゼンハワー大統領(1890〜1969)、ソ連ではフルシチョフ(1894〜1971)が指導者となり、互いに軍縮を目指す動きが見られました。
しかし、1956年のハンガリー動乱やスエズ危機など、依然として世界各地で緊張は続いていました。とりわけ、1962年のキューバ危機は冷戦中最大の危機とされ、ソ連がキューバに核ミサイルを配備したことで核戦争寸前にまで発展しました。これをきっかけに、米ソ間でホットラインが設置され、直接対話による危機回避の姿勢が強まったのです。
「デタント」と呼ばれる緊張緩和の時期には、米ソ両国が対立を抑えつつ外交的接近を進めました。特に1972年には、アメリカのニクソン大統領(1913〜1994)がソ連を訪問し、初の米ソ首脳会談が行われ、SALT(戦略兵器制限交渉)が始まったことが象徴的です。この交渉では、核兵器の保有数を制限し、軍拡競争を抑える試みがなされました。
また、この時期は中国とも関係が改善され、1972年に米中間で国交が樹立されました。アメリカは中国を利用してソ連との対立を緩和させようとし、これが冷戦の緊張をやや和らげる結果となったのです。ただし、冷戦が完全に終結したわけではなく、中東やアフリカ、東南アジアでは依然として米ソの代理戦争が続いていました。
1979年のソ連のアフガニスタン侵攻は、冷戦の緊張を再燃させ、「新冷戦」の時代を迎えました。アメリカはこれに強く反発し、ジミー・カーター大統領(1924〜)は、ソ連とのデタント政策を放棄して、対ソ連圧力を強める方針を打ち出しました。
また、1980年に誕生したレーガン政権は、ソ連を「悪の帝国」と位置づけ、大規模な軍拡政策を進めます。結果、米ソ間の対立は再び高まり、核兵器の開発や宇宙防衛戦略(SDI)など、軍事競争もまた激化しました。特にアフガニスタン戦争や中東の混乱は、新たな代理戦争として冷戦を象徴する出来事となったのです。
1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフ(1931〜2022)は、冷戦の終結に向けた改革を進めました。とりわけ彼の「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」政策は、ソ連国内の経済改革を進めつつ、アメリカとの関係改善にも大きく貢献しています。
アメリカでもレーガン大統領がゴルバチョフとの対話を重視し、1987年には中距離核戦力(INF)全廃条約が結ばれ、核軍縮が本格的に進みました。その後、東ヨーロッパで共産主義政権が次々と崩壊し、1991年にはソビエト連邦が解体。冷戦は終結を迎え、アメリカが唯一の超大国として世界に君臨する時代が始まったのです。
このように、冷戦は数十年にわたる米ソの対立と緊張緩和の繰り返しの中で進行し、最終的には対話と改革を通じて終結したのです。
冒頭解説した通り、冷戦は、第二次世界大戦後に始まり、約45年間にわたって世界を二極化させた米ソ間の対立を中心とする時代でした。この時期には、政治、経済、文化の各方面で大きな影響が現れ、現在の世界秩序や社会構造に多大な影響を及ぼしました。以下では、これらを政治的、経済的、文化的に分けて解説します。
冷戦の最大の政治的影響は、世界が東西陣営に二分されたことです。西側はアメリカを中心とする資本主義陣営、東側はソ連を中心とする共産主義陣営がそれぞれ強固なブロックを形成しました。特に、NATOとワルシャワ条約機構という軍事同盟が両陣営を分かち、緊張関係が続きました。また、ヨーロッパでは、冷戦の象徴として「鉄のカーテン」が存在し、ドイツも東西に分断されていました。
さらに、冷戦下では「代理戦争」が各地で勃発しました。朝鮮戦争やベトナム戦争など、米ソが直接戦うことを避けつつ、第三国で間接的な対立が激化したのです。このため、世界の政治構造は冷戦の影響で長らく緊張状態に置かれ、終結後も、冷戦時代に形成された国際秩序や対立の遺産は、現在に至るまで影響を残しているのです。
冷戦は、世界経済にも多大な影響を与えました。特に、アメリカと西側諸国が冷戦初期から、経済的な繁栄を維持するため自由貿易と資本主義経済を広げていったことは、現在の社会秩序の基盤となっています。
アメリカはマーシャル・プランを通じて西ヨーロッパ諸国を支援し、経済復興を進めたのに対し、ソ連はCOMECON(経済相互援助会議)を通じて経済的な結束を図り、中央計画経済に基づく東側諸国の生産体制を強化しました。
また、冷戦時代の軍拡競争も経済に大きな影響を与えました。アメリカとソ連は巨額の予算を軍事費に充て、特に宇宙開発競争や核兵器開発は多くの資源を消耗しました。この軍事的プレッシャーにより、ソ連は1980年代に経済的な行き詰まりに陥り、ゴルバチョフの改革政策へとつながるわけです。そして冷戦の終結により、市場経済がグローバルに広がった為に、資本主義が世界の主流経済モデルとなったのですね。
文化面でも、冷戦は特にアメリカの大衆文化や消費文化の世界的拡散に大きな影響を与えました。アメリカの映画、音楽、ファッションは、西側諸国だけでなく、東側諸国の一部にも強い影響を与え、世界中でアメリカン・カルチャーが浸透していきました。ハリウッド映画やロックンロール、ジーンズといった文化は、冷戦の象徴ともなり、「資本主義の繁栄と自由を体現するもの」とされたんですよ。
一方で、冷戦の影響を受けた文化的プロパガンダも盛んでした。ソ連は共産主義を称賛する芸術や映画を制作し、国家体制を正当化するための文化政策を推進。アメリカも、共産主義の脅威を強調する映画や文学作品を通じて、自国の価値観を強調しました。このように、文化は冷戦時代においても重要な対立の場となり、イデオロギーを巡る戦いが展開されたのです。
以上のように、冷戦は政治、経済、文化の各分野にわたって世界的な影響を与えました。冷戦の緊張と対立があったからこそ、現在の国際秩序や経済モデル、そして文化の発展が形作られたのですね。
年 | 出来事 |
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1947年 | トルーマン・ドクトリン発表、マーシャル・プラン開始 |
1949年 | ソ連が核実験成功、NATO結成 |
1950年 | 朝鮮戦争勃発 |
1953年 | スターリン死去、朝鮮戦争休戦 |
1956年 | ハンガリー動乱、スエズ危機 |
1962年 | キューバ危機 |
1972年 | 米ソ首脳会談、SALT I締結 |
1979年 | ソ連、アフガニスタン侵攻 |
1980年 | レーガン大統領就任、新冷戦時代へ |
1985年 | ゴルバチョフ、ソ連指導者に就任 |
1987年 | INF条約締結 |
1989年 | 東欧革命、ベルリンの壁崩壊 |
1991年 | ソ連崩壊、冷戦終結 |
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