物々交換や贈りもの、接触と交易が下地となり、やがて蛮族侵入と呼ばれた事態(4世紀以降のゲルマン民族大移動)から、そこに敵対や暴力はあったにせよ、文化の大規模な混交が生じるのである。
ジャック・ル=ゴラ著『ヨーロッパは中世に誕生したのか?』p56より
ヨーロッパ史における民族大移動時代とは、4世紀末から6世紀末までおよそ200年続いた、ヨーロッパにおけるゲルマン民族の大規模移住のことです。英語では「ゲルマン人の侵入」(German invasions)「蛮族の侵入」(Barbarian invasions)などとも呼ばれ、この社会現象が招いた「西ローマ帝国の滅亡」は、ヨーロッパが「古代」から「中世」へと移る画期とされています。
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ゲルマン民族の大規模移住が起こった主な原因は、複合的な要因が絡み合っていました。大まかに、以下のような内的・外的要因が考えられます。
フン族という遊牧民族の西進が、ゲルマン民族の移動を引き起こした最も直接的な要因の一つです。フン族は4世紀後半に東欧に侵入し、ゴート族(特に西ゴート族)をはじめとするゲルマン系諸民族を圧迫しました。フン族による侵略を逃れるために、ゲルマン諸部族はローマ帝国の領内へ移動することを余儀なくされました。例えば、西ゴート族はフン族から逃れてローマ帝国内へと移住し、最終的にはローマと戦うことになります(西ゴート族による410年のローマ略奪)。
ゲルマン民族の移住が可能となった背景には、西ローマ帝国の軍事的・経済的弱体化がありました。3世紀から始まったローマ帝国の内乱や財政危機は、帝国の防衛力を低下させ、国境を越えて移住しようとするゲルマン民族を効果的に阻止できなくなっていました。ローマ帝国の国境であるライン川やドナウ川の防衛線は次第に弱体化し、移住するゲルマン諸部族が次々と帝国領に侵入する余地が生まれました。
4世紀から5世紀にかけてのヨーロッパでは、気候変動が農業生産に悪影響を与えた可能性があります。寒冷化や干ばつなどの気候変動が食糧不足を引き起こし、ゲルマン民族の間で移動を余儀なくされた部族が増えたと考えられています。加えて、ゲルマン社会内での人口増加も、限られた資源をめぐる内部紛争や土地不足を生み、外部への移住が生き残りの手段として選ばれた要因です。
ローマ帝国内は、外部から見れば依然として富と安定の象徴でした。ローマの豊かな農地、技術、そして社会制度は、ゲルマン民族にとって魅力的な移住先でした。特に、ローマとの交易や傭兵としての関わりを持つゲルマン部族にとって、帝国の内部に移住して新たな生活を築くことは、社会的・経済的な上昇を目指す手段でもありました。
ゲルマン民族はもともと遊牧的・移動的な文化を持っていました。彼らの社会は、一部には定住農業を行いながらも、戦士社会としての特徴を色濃く残していました。こうした文化的背景は、より肥沃な土地や強力な政治的地位を得るために、時折大規模な移動や征服を行うことを容易にしたと考えられます。
ゲルマン民族の大移動(民族移動時代)は、4世紀末から6世紀末にかけてのヨーロッパにおいて、政治的、社会的、文化的な大変革を引き起こしました。この大規模な移住の影響は多岐にわたり、短期的な政治体制の変化から、長期的には中世ヨーロッパの社会と文化の形成にまで及んだのです。主たる影響は以下の通りです。
375年、黒海北岸・ドナウ川以北のゲルマニア・ライン川以東などで暮らすゲルマン系の民族集団が、ローマ帝国領内に侵入を開始し、防衛に予算を圧迫されたローマはしだいに衰退していきます。そして476年にはゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより、西方正帝が廃止されたことで、西ローマ帝国の存在はヨーロッパの地から姿を消してしまいました。
オドアケルに帝冠を差し出す西ローマ皇帝
ゲルマン人の大移動は、ヨーロッパの民族分布を激しく変動させ、この地が現在のような多様性に満ちた世界に変貌しいくきっかけとなりました。様々な民族がヨーロッパ各地に新たな王国を築くきっかけとなり、これが地域ごとの文化的、言語的多様性の基盤を形成したからです。
フランク族はフランス、アングロサクソン族はイングランド、ランゴバルド族はイタリアに定着し、独自の政治・社会制度を発展させました。
この時期の民族混交と新しい支配構造の形成が、後の中世ヨーロッパにおける国家の枠組みや文化の基礎となり、現代のヨーロッパ社会にもつながっているわけですね。
ゲルマン民族の流入で、ローマ文化とゲルマン文化の融合が起こり、ゲルマン文化が、ギリシア文明・ローマ文明・キリスト教に並び、ヨーロッパ世界を構成する重要な要素の一つとなります。この融合は、法律、政治、宗教など多方面に影響を与えました。
例えばゲルマンの慣習法は、ローマ法の影響を受けつつ、各地で独自の法体系を生み出しましたし、ゲルマン王国の王たちは、キリスト教と協調し、教会の支持を得ることで権威を強化しています。
とりわけ、フランク王国のカール大帝が800年に神聖ローマ帝国の皇帝として戴冠されたことは、ローマ的要素とゲルマン的要素、キリスト教的要素が融合した新しいヨーロッパ秩序の象徴となりました。
西ローマ帝国領内に移住・定住したゲルマン部族は、各地に王国を建設しました。しかしほとんどのゲルマン国家は、東ローマ帝国、イスラーム勢力、フランク王国など大国に征服され中世のうちに滅亡しています。
ゲルマン王国一覧
西ゴート王国
西ゴート人はもともと黒海沿岸に住んでいましたが、フン族の圧力を受け、ローマ帝国領内に侵入しました。408年、ローマを占領し略奪。その後、イベリア半島に移住し、418年に西ゴート王国を建国。711年、ウマイヤ朝イスラム勢力により滅ぼされました。
東ゴート王国
東ゴート人も西ゴート人同様、フン族の圧力を受けて移動を開始。493年にイタリアに移住し、東ゴート王国を建国。東ゴート王テオドリック大王は、ローマの伝統を尊重しつつ、統治を行いました。しかし、553年に東ローマ帝国のユスティニアヌス1世による再征服で滅ぼされました。
ブルグンド王国
ブルグンド人はもともとスカンジナビア半島出身で、ライン川沿いに定住。ローマ帝国の崩壊後、現在のフランス東部とスイス西部にブルグンド王国を建国。しかし、534年にフランク王国に征服されました。
フランク王国
フランク人はライン川下流域に住んでいましたが、ローマ帝国の崩壊後、現在のフランス北部とベルギーに移住。クローヴィス1世の下で統一され、フランク王国を建国。フランク王国は、その後カール大帝の時代に西ヨーロッパ全域に広がる大帝国へと成長しました。
七王国
アングロサクソン人は、ゲルマン民族の一派で、イギリスの東海岸に移住し、七つの王国(ノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ケント、サセックス、ウェセックス)を建国しました。これらの王国はやがて統一され、イングランド王国が成立しました。
上記のゲルマン王国のうち、ローマの精神を継承したフランク王国が、8世紀末、現在のフランス・ドイツ・イタリア北部にまたがる大帝国を築き上げました。このことでヨーロッパ史の中心舞台が地中海沿岸から、ヨーロッパ西部に移行したことは非常に重要です。
西ヨーロッパの基礎を築いたフランク王国の最大版図
ゲルマン人は、もともとスカンディナヴィア半島やデンマークなど北欧を原住地として生活していました。しかし、人口増加や気候変動、経済的な要因などが影響し、徐々に南下や西進を始めます。これは、紀元前から始まり、ローマ帝国の成立期に重なったため、ゲルマン人とローマ帝国との接触や衝突が頻繁に見られるようになります。このようなゲルマン人の移住は、数世紀にわたって断続的に進行し、4世紀後半から始まった大規模移住が上で解説した第一次大移動です。
そして実は、4世紀の大規模移住に参加せずスカンディナヴィア半島に残った「北ゲルマン民族(ノルマン人、いわゆるヴァイキング)」に関しても、9世紀頃から海を渡り、西ヨーロッパや東ヨーロッパへ進出していきました。彼らは優れた船舶技術を駆使し、ブリテン島やフランスのノルマンディー地方、さらには東ヨーロッパに至るまで探検と侵攻を行っています。特にノルマン人によるノルマンディー公国の成立や、後のイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)は西ヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。
ヴァイキングの活動は西欧だけにとどまらず、地中海にも拡大しました。11世紀にはシチリア島を征服し、シチリア王国を建国。さらに、彼らは東欧でも活動し、キエフ公国などで新たな国家を築いています。このような北ゲルマン人による海上を主体とした拡大と植民活動は、「第二次ゲルマン人大移動」と呼ばれ、11世紀まで続いたのです。
ゲルマン人の大移動は、ローマ帝国の衰退期や中世初期のヨーロッパにおける国家形成に決定的な影響を与えました。特に、第一次ゲルマン人大移動が陸路を中心としたのに対し、第二次ゲルマン人大移動は海上での移動が中心です。つまりその活動範囲は広大だったが為に、第一次よりもヨーロッパ全体の文化、政治、経済に多大な影響をおよぼすことになったんですね。
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