大空位時代

大空位時代とは、神聖ローマ帝国の歴史において、事実上皇帝が不在であった1256〜73年の時期のこと。厳密には皇帝は存在しましたが、帝国内で僭称皇帝が濫立していたため、安定した帝位が存在しなかった期間・・・といえます。この期間に神聖ローマ帝国の領邦国家化は決定的なものとなりました。

 

なお大空位時代の終わりについては、ハプスブルク家のルドルフ1世即位を基準とする説は共通の見解ですが、始まりについては、コンラートが死した54年とする場合と、オランダ伯ウィルヘルムが死した56年とする説があります。

 

 

大空位時代の原因

そもそもの発端は、フリードリヒ2世がローマ教皇との対立からシチリア島に引きこもったこと、その後を継いだコンラート2世も即位後まもない1254年に没したことにあります。

 

コンラート2世には跡継ぎがいなかったため、ホーエンシュタウフェン朝は断絶しますが、ドイツの有力諸侯は、自分たちの利権を守るべく、出来るだけ神聖ローマ帝国内に影響力をもたない皇帝を立てようとしました。

 

ドイツ皇帝なのにドイツ人じゃない?

その結果、有力諸侯にとって都合の良い皇帝・・・オランダ伯ウィリアム、次いでイギリスヘンリー3世の弟リチャードと、スペインのアルフォンソ10世など、ドイツには全く顔を出さない名ばかりの皇帝ばかりが推挙されるようになりました。

 

「ドイツ史」の観点からは、ドイツ人でない皇帝は神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)としては認められない、ということで、これらドイツ人以外が帝位についていた約20年は「大空位時代」といわれているのです。

 

大空位時代の歴史

大空位時代の始まりには複数の解釈がありますが、ひとまずここでは1256年から始まるものとして、その流れを前期・中期・後期に分けて解説いたします。

 

前期

大空位時代の始まりは、皇帝コンラート4世(1228 - 1254)の死後における皇帝不在の時代と重なり、正式な開始としては、「1256年に神聖ローマ帝国の皇帝が選ばれなかった時点」に設定されることが一般的です。この時期、ホーエンシュタウフェン家が終焉を迎え、強力な統一的支配が失われたことが、帝国内での混乱の引き金となりました。

 

まず、1257年にはドイツ王の選挙が行われましたが、そこでは二人の候補が対立しました。一人はリシャール・オブ・コーンウォール(1209 - 1272)で、もう一人はカスティーリャ王アルフォンソ10世(1221 - 1284)でした。この二重選挙によって、皇帝の座が定まらない不安定な状況が続き、ドイツ諸侯は自らの権力を強化しようと争うようになりました。

 

また、この時期には教皇と皇帝の関係も冷え込んでおり、教皇は帝国の混乱に干渉しようとしましたが、十分な力を発揮することができませんでした。これにともない、皇帝の権力基盤はますます弱体化し、各地の諸侯がその影響力を拡大するための動きが活発化したのです。

 

中期

大空位時代の中期にあたる1273年、ついにハプスブルク家のルドルフ1世(1218 - 1291)が皇帝に選出され、彼の即位は、帝国全体に安定をもたらす一時的な転換点となりました。ルドルフ1世は、ホーエンシュタウフェン家の残党や支持勢力を抑えるための軍事活動を行い、少なくとも形式的には帝国の再統一を目指しました。とりわけ、彼が目指したのは、失われた皇帝の権威を復権させることでした。

 

ルドルフ1世は、皇帝として自らの地位を強固にするため、教皇との関係を修復することにも努め、教皇と協調しながら、ハプスブルク家の領地を拡大し、その影響力を広げていったのです。特に、1278年の「マルヒフェルトの戦い」でボヘミア王オタカル2世(1230 - 1278)を打ち破り、ハプスブルク家がオーストリアとシュタイアーマルクを獲得したことは、ルドルフ1世の最も大きな功績の一つでした。

 

しかし、ルドルフ1世が帝位を継承させようとした息子アルブレヒト1世(1255 - 1308)は、選帝侯たちの支持を得られなかったため、ルドルフ1世の死後も皇帝の座は不安定な状況が続きました。これにより、大空位時代の混乱は完全には終息しなかったのです。

 

後期

ルドルフ1世の死後、再び帝位を巡る争いが起こり、大空位時代の後期に突入します。1291年にはアドルフ・フォン・ナッサウ(1255 - 1298)が皇帝に選出されましたが、彼の治世は短く、帝国内の統一を果たすことはできませんでした。アドルフはその後、1198年に王位を奪われ、ルドルフ1世の息子であるアルブレヒト1世が皇帝に選ばれましたが、彼もまた強い反対派に苦しむことになります。

 

この時期、諸侯の力がますます強大になり、皇帝の権威が弱体化していきました。ドイツ国内では、各地方の諸侯が独自に統治を行うことが多くなり、特にライン地方やバイエルン地方では独立的な権力が確立されつつありました。また、選帝侯たちの間でも対立が激化し、皇帝の選出がますます難航するようになったのです。

 

最終的に、1314年にルクセンブルク家のハインリヒ7世(1275 - 1313)が選出され、皇帝の座を巡る混乱が一旦終息しますが、この時期の皇帝権は以前ほど強力ではなく、ドイツの統一はしばらく先のこととなります。大空位時代は、結果としてドイツの分権化を促進し、諸侯の自立が進んだ時代でもあったんですね。

 

大空位時代の影響

「大空位時代(1256年?1314年)」は、神聖ローマ帝国で皇帝の座が長期間空位となり、帝国内外にさまざまな影響を及ぼしました。この時期の影響を政治・経済・社会・国際関係という観点から順に解説いたします。

 

政治的影響

「大空位時代」の最大の影響は、神聖ローマ帝国内の分権化が加速したことにあります。皇帝の不在によって、帝国の統一的な支配が弱まり、諸侯たちはそれぞれの領地で独立した統治を強めました。とりわけ、選帝侯や大規模な諸侯が権力を拡大し、皇帝不在の混乱を自らの利益に利用しようとしたのです。そして選帝侯は皇帝選出の権限を強化し、その影響力を拡大させるとともに、地域ごとの実権を握るようになります。

 

また、皇帝を選ぶ選挙制度も重要な政治的問題でした。1257年のドイツ王選挙ではリシャール・オブ・コーンウォールとカスティーリャ王アルフォンソ10世(1221 - 1284)の二人が選ばれ、どちらも支配力を発揮できず、帝国の中央権力はさらに弱体化しました。この結果、神聖ローマ帝国は実質的に多くの独立した小国に分裂し、各地の諸侯が自らの権力を維持・拡張しようとする動きが加速していったのです。

 

経済的影響

「大空位時代」の間、政治的な混乱にもかかわらず、一部の都市は経済的に発展を遂げました。特に、自由都市帝国直属都市と呼ばれる自治都市がその代表です。これらの都市は、皇帝の支配が弱まる中で独自の経済権限を強め、交易や商業の発展を促進しています。とりわけ、ハンザ同盟の都市などは国際的な商業ネットワークを形成し、経済的に自立することに成功しました。

 

このような自治都市の発展は、帝国全体の経済基盤の分散化を招きました。皇帝がいないことで、中央からの税や干渉が少なくなり、都市や商人たちは自由な活動がしやすくなったのです。これにともない、地方ごとの経済発展が進んだ一方で、中央政府による一元的な経済政策の不在が、地域間の経済格差を生んだという側面もあります。

 

社会的影響

「大空位時代」には、教会の役割も重要な位置を占めていました。皇帝の権威が弱まったことで、教皇やカトリック教会は帝国の混乱に介入しようとしましたが、内部の争いや分裂もあり、思うようには影響力を発揮できませんでした。それでも、教会は依然として宗教的な権威を保持しており、多くの人々にとっては精神的な指導者であり続けたのです。

 

また、地方社会では、貴族や地主が自らの力を増大させた一方で、農民たちは重税や貢納を強いられることが多く、生活が困窮しました。地方の領主たちは、皇帝の不在を利用して農奴制を強化し、農民の自由を制限する傾向がありました。これにより、地方社会の不平等がさらに拡大し、一部の地域では農民反乱も発生しました。

 

大空位時代は、社会の構造が硬直化していく一方で、都市の市民階層は力を増していくという二極化が進んだ時代でもあったんですね。

 

国際的影響

大空位時代の国際的な影響も見逃せません。皇帝の不在によって神聖ローマ帝国の国際的な影響力は低下し、これにともない周辺国の台頭が目立つようになります。特にフランスやイングランドは、この時期に力を蓄え、国際政治の主導権を握るようになりました。フランスではカペー朝が国内統治を強化し、イングランドではプランタジネット朝の下で中央集権化が進行していきました。

 

一方、神聖ローマ帝国自体がまとまりを欠いていたため、帝国内での軍事的な防衛能力も低下しました。これにより、帝国内の諸侯はしばしば自らの領土を守るために独自の軍事力を強化し、隣国や外部からの侵攻に備える必要がありました。このような分裂状態は、帝国全体の国際的な地位の低下を招き、他国が帝国領土に干渉する余地を与えたのです。

 

金印勅書の制定

大空位時代に終止符を打ったルドルフ1世

 

「大空位時代」は、ハプスブルク家のルドルフ1世(1218 - 1291)が1273年に神聖ローマ皇帝に即位したことで一応の終止符が打たれました。しかし、彼の即位によってすぐに安定したわけではありません。ルドルフ1世は一時的に秩序を回復し、ホーエンシュタウフェン家の後継者争いを収束させたものの、その後も皇帝選出をめぐる対立は続き、いつ再び混乱に陥ってもおかしくない状況が続いたのです。

 

とりわけ、皇帝の選出が諸侯たちの思惑によって左右される中、皇帝の権威は安定せず、諸侯間の勢力争いが絶えませんでした。選挙の度に有力な諸侯や王家が互いに候補者を推し、場合によっては複数の皇帝が同時に選ばれることもありました。これにより、皇帝の権力は極めて脆弱で、統治が混迷する状態が続いたのです。神聖ローマ帝国は巨大な領域を有していたにもかかわらず、その統一性が失われつつあり、各地の領邦が独自の政策を進めるようになっていきました。

 

こうした背景を受け、1356年に制定されたのが「金印勅書」です。この最高法規は、皇帝選出権を7人の選帝侯に限定し、選挙の手続きを明確化することで、帝国の統治構造を安定させようとするものでした。選帝侯には、マインツ大司教やボヘミア王などの有力な人物が名を連ね、彼らが皇帝を選出する権利を独占する形となりました。これにともない、選挙に関わる混乱を抑え、皇帝の選出プロセスを一定の秩序のもとで行う仕組みが確立されたのです。

 

また、金印勅書には、皇帝の権限と各領邦の主権に関する取り決めが明記されており、これにより各地の諸侯に独立した統治権が事実上認められました。これが、神聖ローマ帝国の「領邦国家化」を決定的にする要因となったのです。帝国全体の統一的な支配が弱まり、各領邦が独自の政策を追求する自由が増した結果、皇帝は「象徴的な存在」となり、各地の諸侯や都市が自治的な運営を強化する流れが加速したわけですね。

 

金印勅書はその後、1806年の神聖ローマ帝国解体まで法的な効力を持ち続けましたが、実質的には帝国内での中央集権的な統治を難しくし、結果として領邦間の分立が進んでいくことになりました。つまり、皇帝の選出が安定したことで一部の混乱は収まったものの、各地の諸侯たちがますます強大な力を持つことになり、帝国の統一性は次第に失われていったのです。

 

このように、ルドルフ1世の即位を契機に始まった安定化の努力は、金印勅書の制定を通じて一応の形を見せましたが、帝国の内部では地方の分権化が加速し、結果として神聖ローマ帝国は「領邦国家」としての色を強めていったのです。金印勅書についてさらに詳しくは【金印勅書】をご参照ください。

 

このように、「大空位時代」は、神聖ローマ帝国にとって政治的な分権化、経済的な自立、社会の二極化、国際的な影響力の低下といった多岐にわたる影響をもたらしたのです。各地での権力の分散は、帝国内の統一を難しくし、地方ごとの自立が進む一方で、中央集権的な皇帝権力の再建は容易ではなかったのです。