ルネサンス時代

ルネサンス時代

ルネサンスは近代世界の存立すべき理由の解き放ちであった。

 

ドイツ哲学者ヘーゲル(1770〜1831年)

 

ルネサンス時代とは、14〜16世紀にわたるヨーロッパで文化的な革新運動が起こった時代です。イタリアから西ヨーロッパ各国に広まっていき、思想・宗教・文学・科学・美術・建築・音楽など広範な文化領域で飛躍的な発展が起こりました。

 

そしてルネサンス期ヨーロッパの天文学・地理学の発達、科学技術の発展、羅針盤の発明などが、15世紀後半からの大航海時代を切り開き、ヨーロッパが世界をリードしていく近代社会への移行を準備することになります。

 

 

ルネサンスの意味

「ルネサンス(Renaissance)」とはフランス語で「再生」を意味していますが、この運動が古典古代文化の「復興」を目的としていたことから、一般的に「文芸復興」と訳されます。

 

ルネサンスの中心

初期ルネサンスは、北イタリアの「都市共和国(コムーネ)」がその担い手となりました。当時のコムーネは、東方貿易による繁栄を背景に、皇帝権から独立した「自由都市」となっており、まさに回帰を目指す古代ギリシアの「都市国家(ポリス)」と似た性格を持っていました。

 

さらに

 

  • 東方オリエント世界には古典古代文化が多く保全されており、コムーネは交易を通してそれらに触れる機会に多く恵まれた。
  • イタリアが古代ローマ発祥の地であったことから、建造物など古代ローマの遺産が多く保全されていた。

 

ことなどもあり、イタリアには「復興運動」のためにはこれ以上ない絶好の環境・条件が整っていたのです。

 

ルネサンス文化の担い手

ルネサンス期に目立った繁栄をみせたコムーネとしては、フィレンツェ、ミラノローマヴェネツィアナポリフェラーラなどが挙げられ、これらの都市からダンテ、ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチガリレオ・ガリレイなど歴史に名を残す芸術家・科学者が輩出されています。

 

またメディチ家など都市支配層の富裕市民が、芸術家に積極的に資金援助をし、ルネサンス文化を育てる上で大きな役割を果たしました。

 

ルネサンス期の重要なパトロンの1人である、コジモ=デ=メディチ

 

ルネサンスの背景

ルネサンスが起こった背景には、いくつかの重要な要因が複雑に絡み合っています。それぞれの要因が互いに影響を与えながら、ヨーロッパにおける文化的な覚醒を促しました。以下では、ルネサンスが起こるに至った原因を経済的、社会的、宗教的、そして知的な要因に分けて解説いたします。

 

経済的な要因

ルネサンスの背景には、まず経済の発展が大きく影響しています。中世末期になると、特にイタリアの都市国家が地中海貿易で栄えました。フィレンツェやヴェネツィア、ジェノヴァなどの都市は、商業と金融で莫大な富を築き、これが文化や芸術の支援に使われるようになったのです。

 

とりわけ、メディチ家のような裕福な銀行家や商人が、芸術家や学者を積極的に支援しました。彼らの財力が、ルネサンス期における新しい思想や芸術の発展を後押ししたのです。経済的な繁栄がもたらす余裕こそが、創造的な活動を支える基盤となり、イタリアをルネサンスの中心に押し上げた要因の一つだったわけですね。

 

社会的な要因

次に、社会構造の変化も重要な背景です。中世の封建社会が徐々に崩れ、都市が発展し始めたことで、新しい社会階層が台頭。都市部では、商人や職人が力をつけ、知識や技術を重視する文化が広まりました。これにともない、中世の封建的な農村社会から離れ、都市中心の文化が花開くようになったのです。

 

また、都市の成長に伴って、自由な思想や新しい学問への関心も高まりました。とりわけ、ギルドや大学のような知識人の集団が活発に活動し、都市を拠点に新しいアイデアが交換される場が増えたことが、ルネサンスの進展を支えたのです。人々は自らの才能や知識を磨くことに意欲的になり、個人の能力が評価される社会へと変化していきました。

 

宗教的な要因

ルネサンス期には、教会の権威が変化する中で、人々の宗教観も少しずつ変わっていきました。中世を通じてカトリック教会が社会を支配していましたが、14世紀に入ると教会内部の腐敗や権力闘争が目立つようになり、信仰そのものに疑問を抱く人々が増えました。これにより、人間中心の世界観、すなわち「ヒューマニズム(人文主義)」の考え方が広まっていったのです。

 

火刑に処される「魔女」を描いた14世紀の絵。このような宗教による迫害はルネサンス勃興の引き金となった。

 

そんな中で、「ヒューマニズム (人文主義)」 と「個性」を尊重する、中世のしきたりにとらわれない自由な市民文化・・・すなわち古代ギリシア古代ローマの古典文化を「復興」させようという風潮が強まっていったのです。

 

人々は教会の教えに盲従するのではなく、自らの知識と経験に基づいて世界を理解しようとする姿勢を強めました。特にペトラルカ(1304 - 1374)のような詩人や学者が古典文献を再発見し、知的復興を推進しました。この動きが、ルネサンスにおける新しい思想や価値観を生み出す基盤となったのです。

 

知的な要因

ルネサンスを語る上で欠かせないのが、古代の文化や学問の復興です。イタリアでは、ビザンツ帝国やイスラム世界からの学問や思想が伝えられ、特に古代ギリシャ・ローマの知識が再び注目されました。この「古典復興」がルネサンス思想の基盤となり、芸術や哲学、科学の分野で革新が起こりました。

 

また、1453年のビザンツ帝国滅亡後、多くのギリシャ人学者がイタリアに亡命し、彼らが持ち込んだ古代ギリシャの書物や思想が、イタリアの知識人たちに大きな影響を与えました。これにともない、古代の文化を再評価し、その知識を現代に生かそうとする試みが活発化。そして、活版印刷術の発明によって、古典文献や新しい学問が広く普及し、知識へのアクセスが劇的に向上したことも、ルネサンスの知的革新を加速させたのです。

 

ルネサンスの歴史

ルネサンスの歴史は、ヨーロッパにおける文化と知識の再生の時代として、約14世紀から16世紀にかけて展開されました。この時代は、黎明期、全盛期、そして衰退期に分けて語られることが一般的です。それぞれの時期ごとに、ルネサンスがどのように始まり、発展し、やがて新しい時代へと移行していったのかを解説していきます。

 

黎明期

ルネサンスの黎明期は、14世紀初頭から始まりました。特にイタリアの都市国家フィレンツェが、この文化運動の中心地となったことが大きな特徴です。この時期、古代ギリシャ・ローマの文化を再評価し、それを復興しようという動きが始まります。人々は、中世的な宗教中心の世界観から離れ、人間の理性や美しさを強調する「ヒューマニズム(人文主義)」の考え方を推進し始めました。

 

この時期の代表的な人物には、詩人ペトラルカ(1304 - 1374)や人文学者のボッカッチョ(1313 - 1375)がおり、彼らは古代の文献を再発見し、学問と芸術の発展に多大な影響を与えています。また、当時のイタリアは都市国家が経済的に繁栄しており、富裕な商人や銀行家たちが学者や芸術家を積極的に支援したことも、ルネサンスが広がるきっかけとなりました。

 

とりわけメディチ家は、フィレンツェにおいて文化・芸術の後援者として名を馳せました。こういった文化人達の功績により、イタリア各地では、絵画や建築、彫刻といった分野で革新が進み、ルネサンスの基礎が築かれていったのです。

 

全盛期

ルネサンスが本格的に花開いたのは、15世紀後半から16世紀前半にかけてです。この時期、ルネサンスはイタリアからヨーロッパ全土へと広がり、芸術、学問、科学において著しい発展を遂げました。とりわけ、美術ではレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 - 1519)、ミケランジェロ(1475 - 1564)、ラファエロ(1483 - 1520)といった巨匠たちが活躍し、これらの芸術家たちが描く作品は、今なおルネサンスの象徴として語り継がれています。

 

また、この時期は、科学や哲学、そして発明の分野でも多くの進展がありました。ニコラウス・コペルニクス(1473 - 1543)の「地動説」は、当時の人々に大きな衝撃を与え、世界観そのものを揺さぶる発見となりました。さらに、ヨハネス・グーテンベルク(1400 - 1468)の活版印刷技術の発明によって、書物がより安価に大量に生産できるようになり、知識の普及が加速しました。この技術革新は、ルネサンス期における知的な活力を支え、思想や科学の広がりを一気に加速させたのです。

 

なお、ルネサンスの全盛期は、古代の理想美を追求する芸術だけでなく、現実的な人間や自然の描写にも注目が集まりました。この時期に完成された技術や思想は、後世に長く影響を与え続けることになったのです。

 

衰退期

ルネサンスが衰退期を迎えた背景には、いくつかの重大な歴史的事件があります。まず、1453年の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)滅亡は、ルネサンスの衰退に関わる大きな出来事でした。

 

東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルがオスマン帝国によって陥落したことで、ギリシャ系の学者たちがイタリアなどに亡命し、彼らが持ち込んだ古代ギリシャの文献や知識は、ルネサンスの発展に寄与しています。しかし、同時にこの出来事は、地中海世界の力の構造を変え、ヨーロッパ全体に不安定さをもたらした面もあるのです。オスマン帝国の膨張により、貿易ルートが影響を受け、ヨーロッパにおける地中海経済の優位性が失われ、これにともない、ルネサンスの中心であったイタリア諸都市の経済力も次第に低下していった為です。

 

次に、1527年のローマ劫掠は、ルネサンスの終焉を象徴する事件として語られています。この時、神聖ローマ皇帝カール5世(1500 - 1558)の軍隊がローマを襲撃し、街は略奪と破壊の被害を受けました。ルネサンス期に文化と芸術の中心地であったローマが大きな打撃を受けたことで、イタリア全体に衝撃が走り、ルネサンス期に育まれた自由な創造活動や知識の発展が停滞する原因の一つとなったのです。教皇領での権威が揺らぎ、ローマの政治的・文化的な中心性が失われたことで、ルネサンスの黄金期は終わりを迎える兆しが見え始めました。

 

イタリア・ルネサンスに終止符を打ったローマ劫掠を描いた絵

 

さらに、16世紀後半には宗教改革が本格化し、1517年にマルティン・ルター(1483 - 1546)が宗教改革を開始したことで、ヨーロッパ全体が宗教的な対立の時代に突入しました。カトリック教会とプロテスタントとの対立は文化にも影響を与え、ルネサンス期に強調された人間中心の世界観が揺らぎ始めました。特に、イタリアではカトリック教会の影響力が依然として強く、トリエント公会議(1545 - 1563)を通じて反宗教改革(カトリック改革)が進められ、宗教的厳格さが強調されるようになったことで、自由な思想や学問の発展が抑制されることになりました。

 

また、17世紀にかけて、ヨーロッパでは大航海時代や新しい科学技術の発展が急速に進展し、世界は広がりを見せます。ガリレオ・ガリレイ(1564 - 1642)ヨハネス・ケプラー(1571 - 1630)といった科学者が、天文学や物理学で革新的な発見を成し遂げ、ルネサンスの人文主義に基づいた知的探求をさらに進化させました。しかし、これらの新しい科学技術の進歩は、ルネサンスの芸術や古典文化を基盤としつつも、より合理的で実証的なアプローチを求めるようになり、次の時代への移行(ルネサンスの終焉)を示してもいたのです。

 

ルネサンス時代は、ヨーロッパにおける知の復興と文化の革新の時代でした。この時代は、中世の束縛からの解放、古典文化の復興を通じて、新たな思想、芸術、科学の発展を促しました。しかし、東ローマ帝国の滅亡やローマ劫掠などの歴史的出来事が、イタリアルネサンスの終焉を告げると同時に、ルネサンスの精神は西ヨーロッパに広がり、さらなる文化的発展を促しました。ルネサンス時代の遺産は、今日の近代文化や思想の基盤となっており、その影響は現代にも色濃く残っています。