ヨーロッパの貴族

ヨーロッパの貴族

貴族(noblesse)の名に値するには、二つの条件を兼ね備えなければならない。まず第一に、貴族が主張しているところの優越性を確認し、具象化する固有の法的身分をもつこと、第二にこの法的身分が血統 を通じて伝えられること。

 

仏歴史学者マルク ・ブロック著『封建社会』より

 

ヨーロッパの貴族と言えば、華やかな宮廷や壮麗な城館が思い浮かぶ人も多いと思います。あれは、そこに住んでいた貴族が、地域や国で権勢を誇り、政治・経済に多大なる影響を与えてきたことを示す「形ある歴史」といえますね。ヨーロッパの歴史は貴族同士の協調や覇権争いにより動かされてきました。ここでは、欧州貴族がどのような役割を担い、歴史を動かしてきたのか振り返りつつ、彼らの存在意義・本質を探っていきたいと思います。

 

 

貴族とは

貴族(英:Noble)とは、生まれながらに様々な社会的特権、盤石な経済基盤を持ち、生きていくためのあらゆる義務や労働から解放されている特権階級のことです。戦争の功績や商業により、ある人間が築いた資産が、その子や孫に代々受け継がれていくことで生まれる「家系」ともいえます。その家系にある種の政治的特権を与える「貴族制」は古くから存在し、古来より貴族というのはヨーロッパの国際政治に絶大な影響力を持つ存在でした。

 

多くの場合、爵位や土地の所有を通じてその地位を固め、国王や教会との結びつきを強めながら、政治や軍事、さらには文化面でも大きな影響を及ぼしていたのです。貴族は権力の象徴であり、同時に支配者層としての責任も担っていたというわけですね。国家や地域の命脈を握り、歴史の局面局面で先陣を切る存在でした。

 

貴族の歴史

ヨーロッパの歴史において貴族は、単なる上流階級以上の役割を果たしてきました。彼らは王権と時に対立し、時に協力しながら、地域の勢力伸張を図り、戦争や外交の場で力を発揮してきたのです。貴族同士の争覇戦や連携によって、国々の命運が左右される場面も少なくありませんでした。また、貴族は文化や芸術の保護者でもあり、ヨーロッパの豊かな文化遺産を現出させた立役者でもありました。

 

以下でそんな貴族の古代から現代までの歩みを掘り下げてみていきましょう。

 

古代の貴族

古代ローマ時代、パトリキ(貴族)に対するプレブス(平民)の身分闘争の発端となった聖山事件を描いた絵

 

ヨーロッパにおいて、「貴族」と呼ばれる存在は、古代ギリシア古代ローマの民主制成立以前の時代から存在し、ギリシアの貴族はエウパトリダイ、ローマの貴族はパトリキと呼ばれていました。ヨーロッパの重要な価値の1つである民主制の成立は、古代社会の中における貴族と平民の身分闘争抜きには語れません。ローマでは共和政移行後も貴族は絶大な権力を握っていましたが、ローマ帝政期に入ると皇帝権力に組み込まれていきました。

 

中世の貴族

フランス国王ジャン2世(国王)から称号を受ける貴族(封建領主)

 

ローマ時代に財を築いた貴族は、中世封建社会における封建領主となり、国王より公爵、伯爵などの称号を与えられ地方の統治を任されていました。この称号はもともと一代限りのものでしたが、やがて子や孫に世襲されるようになり、称号を持つ家系に特権を与える貴族制というものが定着していきました。

 

国王に忠誠を誓う代わりに土地と権力を与えられた貴族たちは、地方の防衛や軍事的支援を担いながら、自身の勢力を誇示しました。すると当然貴族同士の対立も起こり得るわけで、特に12世紀から13世紀にかけて、貴族同士の争い※が激化し、ヨーロッパの政治地図が大きく塗り替えられる要因ともなったのです。

 

プランタジネット家とカペー家の対立(英仏戦争)、神聖ローマ帝国内の大空位時代と諸侯の抗争、レコンキスタとイベリア半島の貴族間の争いなど

 

近世の貴族

フランス革命中の1792年、ブルボン王宮テュイルリー宮殿が襲撃された「8月10日事件」を描いた絵。貴族制、および王政の没落を象徴する事件の一つといえる。

 

封建制が崩壊し絶対王政が成立すると、貴族はしだいに官僚化、いわゆる宮廷貴族となりました。さらに15世紀末以降、商工業が発達すると商業資本家階層の社会に対する影響力が、貴族のそれを上回るようになり、貴族制は徐々に衰退していきました。

 

それでも貴族は宮廷文化を支え、しばしば政治的な相談役として国政に影響を与え続けたのです。

 

近代の貴族

19世紀に入ると、貴族制および王政の打倒を掲げる市民革命が勃発するようになり、多くの国で貴族の特権は廃止され、領地や財産の没収が進みました。しかし一部は依然として政治的な影響力を保持し続け、近代国家の形成においても重要な役割を果たしています。イギリスやオーストリアでは、貴族は法制度や議会において引き続き大きな存在感を示していたのです。

 

 

現代の貴族

現代における貴族は、かつてのような政治的な権力は失いましたが、文化的・象徴的な存在として命脈を保っています。例えばイギリスでは、王室を中心に貴族制度が残り、主に慈善活動や文化の保護に注力し、姿は変わりつつも影響力を維持しているのです。

 

代表的な欧州貴族

ヨーロッパには、歴史の中で大きな影響力を誇った貴族家が数多く存在します。彼らは国家や地域の政治、経済、文化において重要な役割を果たし、時には戦争や外交を通じて歴史の転換点を作り出しました。こうした貴族家は、単なる権力者ではなく、時代を動かす象徴でもありました。彼らの存在なくして、ヨーロッパの歴史は語ることができません。ここでは、特に著名な5つの貴族家を取り上げ、その歴史的意義を探ってみましょう。

 

ハプスブルク家

ハプスブルク家は、ヨーロッパの歴史で最大版図を誇った貴族家の一つです。13世紀にオーストリアを手中に収めた彼らは、15世紀には神聖ローマ皇帝位をほぼ独占し、ヨーロッパ全土に影響を与えました。特に16世紀に入ると、カール5世(1500 - 1558)の時代にスペイン、オーストリア、オランダ、そしてアメリカ大陸の植民地までを統治する巨大な帝国を築き上げます。ヨーロッパ全体の政治バランスを左右する存在にまでなったのです。最終的に、第一次世界大戦の敗北によって帝国は解体されましたが、ハプスブルク家の威光は長くヨーロッパの歴史に刻まれています。

 

ブルボン家

ブルボン家も、ヨーロッパの歴史において非常に大きな影響を与えた貴族家です。14世紀にフランス王位を手に入れた彼らは、その後数世紀にわたりフランスを支配し、太陽王ルイ14世(1638 - 1715)の時代に絶対王政を体現しました。フランスをヨーロッパの文化と政治の中心に押し上げたのです。さらに、スペイン継承戦争(1701 - 1714)の結果、スペイン王位も得ており、これは今日に至るまで断続することなくスペイン王家として続いています。

 

ブルボン家は、フランス革命で一度王政を失うものの、その後復古王政の時代に再び王位に返り咲くなど、波乱に満ちた歴史を辿りました。彼らの歴史は、フランスだけでなく、ヨーロッパ全体の政治的、社会的な変動を象徴するものであり、革命の嵐の中でもその名は消えることはありませんでした。

 

メディチ家

メディチ家は、イタリア・フィレンツェで絶大な影響力を誇った貴族家であり、特にルネサンス期の文化的保護者(パトロン)として知られています。銀行業を通じて巨万の富を築いたメディチ家は、フィレンツェの政治を事実上支配し、文化や芸術の発展に多大な貢献をしました。彼らの支援によって、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといった芸術家がその才能を開花させ、フィレンツェはルネサンス文化の中心地となったのです。

 

また、メディチ家は政治的にも影響力を持ち、家族の多くが教皇やフィレンツェ公国の君主となるなど、イタリア内外での影響力ももっていました。メディチ家の栄光は、ヨーロッパの文化と権力の交錯を象徴するものだったといえるでしょう。

 

ロマノフ家

ロマノフ家は、ロシア帝国を支配した貴族家であり、1613年から1917年まで続いたロシアのツァーリ(皇帝)家です。特にピョートル大帝(1672 - 1725)の時代に、ロシアは西欧化と近代化の道を歩み始め、大国としての地位を確立しました。ピョートル大帝は、軍事改革や経済発展を推進し、ロシアをヨーロッパ列強の一員に引き上げ、さらに「啓蒙専制君主」として知られるエカチェリーナ2世(1729 - 1796)が芸術や学問の振興を図りつつ、ロシアの領土を拡大しました。

 

しかし、1917年のロシア革命によってロマノフ家は帝位を追われ、皇帝ニコライ2世とその家族は悲劇的な最期を迎えています。この事件は、ヨーロッパの王朝政治の終焉を象徴するものでもあり、世界史に大きな衝撃を与えました。

 

ヴィッテルスバッハ家

ヴィッテルスバッハ家は、ドイツ南部のバイエルンを支配した貴族家であり、その歴史は長く、12世紀から続いています。彼らはバイエルン公国や選帝侯国としての地位を確立し、神聖ローマ帝国の中で重要な役割を担っていました。18世紀にはバイエルン王国を築き、ナポレオン戦争後もその地位を保ち続けました。

 

ヴィッテルスバッハ家は、文化面でもその影響力を発揮し、ミュンヘンを中心に数多くの芸術や建築を保護したことで有名です。その中でも、ルートヴィヒ2世(1845 - 1886)の築いたノイシュヴァンシュタイン城は、今日でもバイエルンの象徴的な存在として世界中から観光客を集めています。彼の芸術への情熱と独特な統治スタイルは、ヴィッテルスバッハ家の歴史に彩りを加え、彼らの名を今なお人々の記憶に残しているのです。